直線上に配置

※この頁は新しい順に掲載していますが、倉庫は古い順に並んでいます。

新えびの便り①  15.04.07
  久々(?)の何回目かの再登場です。4日に発信しようと書きかけたものに加筆しています。今朝は小雨がパラついていましたが、今は雨も上がって少し陽射しも射して明るくなってきています。今日は雨の予報を裏切ってこのまま晴れてくれると良いのですが。
 昨日は、ご近所さんに8時前に連絡を貰い、誘われて丸山の自衛隊の演習場へ蕨取りに行ってきました。ここは初めての経験です。小雨模様で合羽も無く降られないか気になりましたが、蕨取りの誘惑に負けて行ってきました。演習場の吉松ゲートを入り凸凹道をかなりの距離走り、車を止め、野焼きの痕跡の残る草原を少し下ると、わっと生えています。葉を開いたのやまだ出て来たばかりの小さなものまで色取り取りです。後の人達の為に長く育ったものだけを選びつつ、踏みつけない様に注意して移動します。持参のビニール袋にかなりの量が取れたので引き揚げ様と、車に戻った途端土砂降りの雨になりました。取っている間だけ雨が止んでいたのは奇跡的な事に思われます。故郷に帰って、初めての蕨取りを気持ち良く出来る様にとの天の配慮でしょうか?
 早いもので、こちらに帰って来て、もう二年が過ぎてしまいました。最初の一年間は事情で何も出来ず、あっという間に過ぎ去り、実質は一年間の様な気がしますが、その気持ちとは裏腹に時だけはきちんと過ぎて行きますので、家の様子や生活環境もそれなりに変わっていきます。先月半ば母の一周忌を終えて心の切り替え時だとも思っています。先ずは、このえびの便りも継続しなくてはと思っているのですが、生来の怠け癖でままなりません。今回は気持ちを新たにと思い新を頭に付けて見ました。まあ、焦っても仕方が無いのでぼちぼちと始めたいと思います。それに、気になる事も身の回りに多くなっていますから、他のコラムも追加していきたいと考えているところです。
 お知らせの通り、畑を少しずつ耕して我が家の菜園は昨年末にやっと当初予定の広さになりました。家庭菜園の広さとしては小さいながらもマアマアの種類を植えられると思います。

今年の野菜はどの様なものにしようかと色々と検討中です。今年はかなりの種類が作れそうです。現在は、玉ねぎと細ネギ、春菊が少し残っているだけです。これからですと、夏野菜の植え付けになります。トマト、ジャガイモ、なす、ピーマン、胡瓜、ズッキーニ等です。それぞれに自分の植えたものは美味しいものです。昨年は、小さいながらも西瓜が2個生りました。余り甘くは無かったですが、味わって食べました。今年もまた植えて見ようと思っています。中でも、トマトとジャガイモが一番簡単で長く収穫も出来、食べごたえもある様です。トマトは赤くなった後に雨に弱いのが欠点ですが。
 帰って以来、感じる周りの事や我が家の菜園の移り変わりなど少しずつ書いてみようと思います。今日は久し振りの発信ということで長文になりました。

我が家の菜園(奥に昨年蕎麦を植えましたが失敗)

えびの便り
   ⑦  14.06.29

 今日は日曜日でしたが、八時から十時の間、朝早くから地区の川内川の支流の堤防の土手の草刈りや県道脇の花壇の花植えの地域の共同作業の日でした。草刈りは若い人は僅かで殆どが高齢男性です。この処の雨で精一杯に生い茂った蔦や雑草を草刈り機や鎌で刈りました。草刈りは距離約一キロ程度は刈ったでしょうか?途中、マムシが一匹、草刈りに驚き草の中から這い出て来て、植えたばかりの田んぼの中に逃げ込みました。追い出した人は殺したがっていましたが、苗の植えられた田んぼに逃げられれば入って行く訳にはいかないので、もう捕まえ様がありません。 
 草刈りは地上に出ている部分を切るだけで根毎引き抜く訳ではないので、きっと雨でも降れば直ぐに勢いよく再び生えてくるのでしょう。まあ、言わば草刈りは地域の親睦の為の行事なのだなあとつくづく思いました。
 一時間後、草刈りを終了し県道脇の花壇に移動しましたが、こちらは殆どが熟年の女性で何となく賑やかしい感じです。私は殆ど花壇周りの草むしりに終始しましたが、最後に三種類位の花を何本か植えさせて貰いました。御苦労賃(?)として、御茶が一本、手袋が一足配給されました。
 この様な、地区の行事は全員参加が基本で参加しないと後が気まずいらしい様です。昨年は母の事で全く出れませんでしたが、これからは可能な限り参加しようと考えています。 

えびの便り  ⑥  14.06.27
  約一年ぶりの便りです。その間色々とありましたが、別途それに付いては「思うこと」にでも書こうかと思っています。
 今日も朝から雨です。何か良く降ります。昨日の午後以来かなりの雨量が降っていると思います。田植えの終わった農家と木々に取っては大いなる恵みの雨です。しかし、雨後、私自身としては一気に伸びた樹や草の処理に大わらわの状態になります。生まれ故郷に帰り、晴耕雨読の生活と気取ってはみたものの、中々、雑草の伸びる勢いは少々の頑張りでは追いつきません。それも雨後の伸び様は必死にやってやっと間に合うかと言った感じです。当り前ですが大自然の力には到底敵い様がありません。しかし、諦める訳にはいかないのですが。二重、三重(四重、五重?)に蔓延った茅の根っ子を掘り起こすのは遅々として進まず想像を超えた重労働ですが、それでも嫌にならない所を見ると、まあ、この生活も身体が馴染んできて結構楽しく感じているのかもしれません。しかし、今年は少し畑の面積を広げようと考えているので更に大変になりそうです。
 ああしようこうしようと想いは馳せ巡るのですが、先延ばしにしてきた、やらなければ成らない事が期限も迫り、次から次に迫ってきます。しかし、不思議なもので農作業をしている間は身体には酷な労働でも、世事の事はすっかり忘れどうやらストレス解消に役立っている様です。私の身体にとっては、ひょっとして、とても良い事なのかもしれません。
 そして、ご存知の方も多いと思いますが収穫の喜びは独特のものがあります。今年はジャガイモ(収穫済み)、レタス、春キャベツ、トマト(8種)、なす(3種)、ピーマン、きゅうり、苦瓜、ズッキーニ、里芋、西瓜、と盛り沢山のメニューになりました。勿論、全て無農薬です。今年は、色も形も大きさも違う色々の種類のトマトが次々と収穫できて味を楽しんでいます。何といっても新鮮です。西瓜は出来るのかなと思っていましたが、小さいサイズながら二つ生っています。時々、収穫したものを御向いさんや従兄に持って行くととても喜んでくれます。持って行くのは、ほんの僅かで、大したことは無いのですが、喜ばれるとこれもまたとても嬉しくなります。

えびの便り
  ⑤  13.06.01
 今、ほんのちっぽけな広さですが、畑に野菜を植えています。二十年以上長期間放置された茅だらけの(地下茎が何重にも蔓延り50㎝位掘り起こさないと取れない。)畑を少しずつ悪戦苦闘し耕し、やっと二畝程小さなものを作り、買ってきた苗を植えました。畝に黒シートのカバーをし、穴をあけて植え付けをし、支柱を立てると小さいながらも、何となくそれらしくなってきました。ただ、最初ひと畝だった事もあり、買ってきた苗を一気に植えたので、苗の数と間隔が狭くなってしまったので出来が少し心配です。それでも、最近、梅雨で雨が多いので苗もしゃきっと天に向かい地面にスックリと立っています。頼もしい限りです。
 もっともっと畑の面積を増やしたいのですが、先程書いた茅の為、耕すのも容易ではありません。ぼちぼちと自分のペースでやっていくしかないと、転居後の細々とした雑用の合間を縫って作業しています。野菜は植えられる時期が限定されるので、今後は何時でも良い種類を少し植えてみようと思っているところです。
 まだまだ、やっと始まったばかりで中々に晴耕雨読の生活には近づけない感じです。

えびの便り ④  13.05.31
 四月から、タイトルを「えびの便り」と変更しましたが、「えびの」は何県にあるのだろうと言うのが大方の人の反応ではないかと思います。文面から、どうやら野久尾の故郷らしいとは想像できても、きちんと位置の分かる方は少ないかもしれません。タイトルにするくらいですから、少し親しみを持ってもらう為にも、今後、何回かに分けて少しずつえびのの情報提供をしていこうと思います。(詳しくはえびの市のホームページをご覧下さい。宮崎県えびの市)

  私は小学校四年生まで、今回の敷地に建っていた古い家に、生まれて以来住んでいました。その後、東京に一家で転居して、二年間で直ぐに名古屋に移転し、高校まで八年間過ごしました。そして、京都、大阪で大学生生活をし、卒業後、東京で設計事務所に五年間勤め、独立して直ぐに招聘建築家としてクウェートでの海外勤務を経験し、帰国後、自宅での設計事務所を経験し、昭和55年に株式会社にすると同時に原宿の竹下通り移転しました。11年前に大学時代の恩師から広島国際大学の教員に推薦され、広島へ単身引っ越しをしました。(私史は又の機会に)従って、えびのは久しぶりの定住となります。おそらく、今回の我が家が終の棲家となることでしよう。仕事ものんびりしていこうと思います。
 私の小さい頃は、町名も「真幸」と言う名前で、昭和41年11月に飯野町、加久籐町と真幸町が合併して「えびの町」となり、更に昭和45年12月に「えびの市」となったという事です。ひらがなの名前を冠した市は、全国でも少ないらしくその数少ない珍しい市名の内の一つです。昔からこの地では、一本の花茎に白い可憐な花がまとまって咲く「えびね」の栽培が盛んで観賞用として親しまれていました。今でも多くの人が栽培している様です。昭和53年末に制定された市の花でもあり「えびの」の名前はそこから来ているとも言われています。
  土地は周りを山々に取り囲まれ、東西に川内川が流れ細長い盆地になっています。南には天候により表情の移り変わる、美しい霧島連山が望める温泉の湧く自然環境の豊かな場所で、家の近くの吉田温泉は県内一の古い温泉です。また、地形もあり昔から交通の要衝で、様々の歴史の舞台でもありました。そして、かつては西郷さんや山頭火の訪れた場所でもあります。また、約1500年前の穴墓群から出土した銀象眼太刀などの多くの重要文化財が、えびの市民俗資料館に展示されており、昔からの人々の生活の移り変わりもかい間見えてきます。
  現在も、市内には高速道路九州道のえびのインターがあり、九州道の一部、鹿児島道と宮崎道の分岐点となっています。鹿児島空港へは自宅から車で約30~40分で行け、思ったより便利なところです。買い物は、県内であれば車で30分の隣の小林市に行くか、隣県の鹿児島へ出るかですが、鹿児島へは1時間半位で行けて、デパートも幾つかあり、品物も大概手に入りますので、その様な時には鹿児島へ出ることが多くなります。
 先ず今回は、概要のお知らせです。朧げでも輪郭が描けてきたでしょうか?

えびの便り
③ 13.05.22
 蛍を久しぶりに見ました。隣を流れる合鴨の住み着く川の上をふわりふわりと四つか五つの光が浮かんでいました。最初は、想像もしていなかったので何が点滅しているのだろうと一瞬不思議に思いましたが、ハタと頭の回路がつながり蛍である事が分かりました。分かった途端、何故か感動し興奮してしまいました。慌てて写真を撮ろうとしましたが披露できる程には写っていません。先程は、寝室の窓の外を横切って左から右へ飛んでいきました。皆さん、目の前にふわりと浮かぶ蛍を最近見ましたか?これだとかなりの数の蛍が居るのかもしれません。
 まさか、帰郷して蛍まで見る事が出来るとは考えもしておらず、何と幸運なことでしょうか!おそらく、昔の家を壊した後、この十年近く自然のままにほったらかしにした為に、お陰で自然環境がきっちりと守られたということの様です。しかし、昨年、敷地の対岸はかなりの河川工事で川も大分荒らされたに違いないのに、よくぞ生き延びてくれたものです。蛍はきれいな水の流れる川にしか住めないと言います。今後、川を汚さない様気を付けなくてはいけません。

  今更ながら、ここの自然の豊かさに気付かされます。それと同時に、それらがちょっとした変化で壊れてしまうことも知っており、これもまた事実です。それと、市は蛍が居るのを知っているのでしょうか?明日にでも聞いてみる必要がありそうです。今日の驚きを報告します。


えびの便り
② 13.05.20
 2回ほど我が家の写真を紹介しましたが、家の写真ばかりではえびの便りにならないので、詳細は、別の機会に譲ることにして、一先ず小休止します。また、写真が小さくて見えないという意見もあります。サムネールで大きく見える様加工しているのですが、どうもリンクがうまくいきません。問題を解決してから再度掲載するつもりです。
 前回書きましたが、床を標準より少し高くした大きな理由の一つである、何回も増水(本流の川内川への水門の故障が原因)しているという隣接する深さ3m位の小川には、少ないですが綺麗な水が流れており、現在、2羽の合鴨が住み着いています。何カ月か前の工事中には、少し下流の溜まりに親子5~6羽が一緒に浮かんで居るのを何回か見掛けたのですが、今は雄2羽になっています。飼われていた訳でもないはずですが、かなり人にも慣れている様子で、特に彼らに危害を加え様としなければ逃げはしません。むしろ、心配なぐらいです。彼らは、朝、餌を探しながら下流から川を遡って来ます。朝の7時半から8時頃に我が家の敷地角にある橋の下に到着し、その頃近くに居れば(最近、待って居る様にも思えます。今朝も七時半頃やりました。)橋の上から食パンを小さく千切って投げ与えています。少し離れていても、姿を見付けると身体を左右に揺すり転びそうになりながら飛んできます。餌やりの途中、羽を広げて羽ばたいたり、尾を左右に振る仕草も度々し、喜んでいる様にも感じます。(犬が尻尾を振る様です。)人が餌を与えると人を怖がらなくなり危険という意見もありますので、考えねばいけないのかも知れませんが、現在の所私は良しと判断し与えているところです。
 また、家を建てる前に敷地を訪れた際、尾の長くてきれいな雄と茶羽の小型の雌の2羽の雉の番いが敷地を横切ったのを数度見てもおり、引っ越して来てからも、声だけは朝・夕にケンケンと間近に毎日聞いて、近くに居るのは分かってはいましたが、一昨日、雌の様でしたが1羽の雉が餌を探しながら、庭をゆうゆうと闊歩し、横切って行きました。慌てて、カメラを取りに行き、写真を撮りましたが突然の事で、残念ながらタイミングが少し遅かった様です。それでも、何とか姿は写っているので合鴨と雉(小さ過ぎる?)の写真をアップする事にします。


えびの便り
 13.05.13

 やっと、えびの市より一回目の報告をします。名前を改め、えびの便りとします。
 宿舎と研究室、ゼミ室の大量の本を始めとする荷物をまとめ、バタバタと引っ越しをし、外回りが未完成の我が家(家の検査済みは貰いましたが)に3月20日に引っ越しをしてきました。元々工期が短かったことも有りますが、引っ越してから何だかんだと一月ぐらい掛りました。やっと先日完了しましたが、その他にも色々起きて何だか疲れてしまい現在休憩中です。
 今日は、青空で天気も良く、とても静かでそとには風がさわさわと流れています。遠くの青い霧島連山へ動いていく風の道筋が見えます。夜は晴れていれば、クッキリと満天の星が輝いています。中々、見上げる事もしなかった久しぶりの星空に感動しています。
 広島だよりの最後に家の工事中の写真を掲載しましたが、途中で途絶えどうなったのか気にされているかもしれません。先に書いた様な事情で掲載が遅れてしまいました。
 敷地は、生まれてから小学校四年生迄住んでいた場所で、生えている木の一本一本に懐かしい思い出があります。その頃、既に大木だった周りの巨木は優に樹齢百年を超えるのではと思います。大切な家の守り木です。建材は殆ど天然資材を使い、床・壁・天井共木を使いました。太陽光発電とエコキュートを採用し、オール電化住宅です。床は段差なしのバリアフリーで環境に優しいエコな住宅です。太陽光発電が稼働しているメーターの数字を見ていると、オッ頑張っているなと発電しているのを実感し、ちょっと嬉しくなります。デザインも外壁は白い漆喰塗と板張りに黒の無臭柿渋塗装、内部は無臭柿渋の茶色の濃淡塗装です。単純明快な形の切妻の平屋で、突飛な形の面白みは無いかもしれませんが、住まいの雰囲気は充分に醸し出しています。すぐ横の川が増水したりする為、床を少し高くしたので別荘風(?)でも有ります。先ずは、外観を掲載します。何れも同じ日の朝六時に写したものです。

広島だより
広島だよりの最後のコラムが操作ミスでしょうか何故か写真などが消失してしまいました。微かな記憶でせめて何も建っていない敷地時代と地鎮祭そして着工後の基礎・土台、そして上棟などの写真を何枚か掲載します。完成写真だけでは何がどうなって建ったのか分かりにくいと思いますので。


広島だより
 12.12.22
昨日に続きアップします。
まだ少し先のことではありますが、と言っても直ぐにその時が来てしまうと思うので、今の時点で少しお断りをして置きたいと思います。
年が明けると3月で大学を退職し、生まれ故郷の宮崎県「えびの市」に帰って新しい「次の」生活を始めようと思っています。恩師の「君を一番に推薦しておいたから」の一言で広島に来て、早くも10年が過ぎようとしています。本当にあっという間の時間でした。それだけ年もとりました。こちらに来て、多くの学生そして色々な人達との出会いや、様々の出来事がありました。今、全てを思い出し、振り返るには余りにも多過ぎて、故郷に帰ってからゆっくりと思い出を反芻しようと思います。楽しい思い出だけなら良いのですが、思い出したくないものもあります。しかし、それらをひっくるめて思い出と言うのでしょう。
いま、帰るために家を造っています。平屋のシンプルな四角い家です。叔母の山の杉の木を伐採し挽いた材木で外壁、内壁、床、天井を造るエコに心掛けた自然素材の家の予定です。当初、安く造れるはずだったのですが、残念ながら結果的にはかえって高く付いた様です。何も贅沢はしていませんが、外観はこの一帯に多く見かける、昔の武家屋敷風の真っ白な漆喰壁と黒い柿渋塗りのササラ子下見板張りの組み合わせにする予定で、これぐらいが唯一の贅沢でしょうか?しかし、何といっても一番のお奨めは景色で北に連なる蒼い矢岳の山並みと南への開放感でしょう。これは何物にも代え難く、癒されること疑いなしの宝物です。
竣工は来年の3月15日予定で厳しい工期ですが、雨などで少し伸び加減で心配なことです。
そして、一番の気懸りは引っ越しです。大学の研究室、ゼミ室の荷物と宿舎の荷物の引っ越しもそれに合わせてしなくてはなりません。引越し屋さんの見積りを取り日程も決める必要があります。ですから工事が延びると大変困ったことになります。これからの日々は仕事と合わせ胃の痛くなる毎日になりそうです。せめてどれかでも楽になると良いのですが。
このような事情ですから、四月からはこのコラムも「広島だより」から「宮崎だより」か「えびのだより」に衣替えせねばなりません。
敷地写真も次回から少し載せてみます。

広島だより 12.12.21

久しぶりのアップです。
今年は、思いがけない事も含め色々と身辺に起きました。一番のショックな出来事は5月初めに病気をしたことです。運良く今回はほんの短期で済みましたが、運が悪ければあの世行きだったなと、今、暮れに振り返り思い出しています。その事を書きます。
ある人に、今年の正月には、私の年齢の事もあるかもしれませんが、何時までも海外旅行に行く事ばかり考えないで身体と病気にも気を付けなさいと忠告をされていました。本当に有難い事です。しかし、言われる本人はその時には元気な訳ですから聞く耳持たずの状態で、それに加え自分の負の状態は想像したくないこともあり、深く考えるのを避けたがります。今思うと考えが足りなかったことが良く分かりますが、その時には自分がバカなことに気付かないのです。そして、素直に忠告に従うことは稀です。人間は想像力があるのですから、病気になってからしか自分を客観的に見れないのは本当に情けない限りです。
それにしても、最近、医者は過剰とも思えるほど色々な制限を課したり薬を増やそうとしているように見えてしまいます。きっと善意からの指導なのでしょうけど。医者によっても発言内容が違うなと思うことがあります。これは私の偏見でしょうか?そう思う時ありませんか?
先ず、私の家系(と言っても祖母、両親とも90歳超の高齢でした。弱ってきてはいますが母は健在で93歳です。)として血圧が少し高いので私は十数年前から軽い降圧剤を飲んでいます。ずっと同じ量を飲み続けています。病気とうまく付き合っていくことが長寿の秘訣ではないかと思っています。血圧については学会でも色々異論があるのでしょうが、国の基準より下げられるだけ下げた方が良いという医者と基準を守れば良いという医者といる様です。つまり前者は量を増やそうと言うのです。以前、主治医が居ない時若い代理の医者に、身体状況や生活状況もろくに聞かず、突然薬の量を倍に増やすからと言われた時には愕然としました。その様な医者は怖いですからその日からそこに行くのを辞めました。私は基準を守れば良いと思うのですが、病気になってみると強くは主張できなくなります。とは言え、病気になるのは長期の積み重ねの複合的な要因でなることが多く、血圧のせいだけではない様です。また、学会も揺れ動いている様です。
その結果、何が大変かというと毎日の食事です。一日三食の事ですから大変なことです。塩分と脂質・糖分の少ないものを食べるよう言われています。一番は塩分量だろうと思いますが。しかし、美味しいものはご存じの通り全て塩分が入っているのですね。良い塩梅と言う様に。今は家で食べる食事は、出来るだけ出汁味で食べる 様に工夫しています。それにしても一日6g以下はきつい。
ですから、外で食べられるものは殆ど無く、外食がかなり困難になります。外食でも、塩分を極力減らすよう野菜サンド程度になりました。最近、呉市では市を挙げてのイベントとして幾つかのレストランが減塩メニューを出す様になってきています。先日、ものは試しとそごうデパートにある陳さんの四川飯店に行ってきました。結構美味しいと思いました。しかし、毎食ではお金が掛り過ぎます。
現在、食事・軽体操による体質改善中です。病気後、体重にも気を付けるようになり、食事に気を使い、特別なことをしている訳ではありませんが、6~7キロ減量しました。しかし、残念ですがお腹など思うところだけが減る訳ではありません。そして、これ以上は中々減らず、何か特別の事をしないといけないのかも知れません。だらだらと書きましたが、今日は久しぶりの報告、この辺で。

広島だより  11.03.2811.05.30up
 いよいよ、滞在最後の日です。今夜の9時45分には飛行機に乗らねばなりません。あっという間の滞在でした。何故か、旅は何時もあっという間に終わります。朝食は3日目も同じレストラン・ライズのバーエリアの同じ席で摂ることが出来ました。係りの人には少し無理を言ったかもしれません。この日は最後の日ということもあり、あまりゆっくりもしておられず早々に部屋に戻り、忘れ物のないよう注意して荷造りをしました。その後、身軽に動けるよう1階のラゲッジルームに荷物を預けて、ホテルの外観を撮影します。第3棟の玄関を出て右の方向へ向かい、橋の中ほどから見上げの写真を何枚も撮りました。何しろ大きなホテルなので全景を上手く映すには工夫が必要です。外はかなり暑くなっていましたが、最後まで雨に降られなかったのは、今回の旅もまた本当に幸運でした。
   外観  
 その後、
買物が殆どできていないので中国茶と茶器を買うために、昨日に続きチャイナタウンに向かいました。何だかんだで出発できたのは10時を過ぎていました。タクシーでホテルから左折して進んで真っ直ぐ暫く北上し、スリ・マリアマン寺院の前で降ります。昔、インド人達が大勢住んでいたという地域でチャイナタウンの真ん中に位置しています。入口には高さ15mの立派な門があり、ヒンドゥー教の神々や動物、人などの彫刻が複雑に絡み合い極彩色に塗られおり、大変に目立ちます。月曜でしたが、子供も含め大勢の信者が集まっていました。寺院の向かいは中国の骨董店です。面白いものがありますが手が出ません。
  スリ・マリアマン寺院  骨董店

 寺院横のパゴダ・ストリートを駅の方へ上がり、昨日、目星を付けておいた、中国茶の茶行でお茶を一缶と茶盤と基本的な茶器を一式相談しながら買いました。現在、小さな急須や茶碗を幾つか持っているのですが、茶盤を持っていないのでどうしても欲しいところでした。日本では昔東急ハンズに置いてあるのを見掛けたことはありますが、きれいに作られた手頃な物が日本では手に入らなかったのです。茶盤を今回手に入れられたのは上々でした。茶盤は全て竹製の箱作りで厚めの飴色の竹を削り出し美しく作られています。(帰って、お茶を点てて試したところ、中々良い使い勝手で、気分上々でした。楽しみです。)
 パゴダ・ストリート中国茶店

 2時半頃ホテルに戻り、最後の館内散策をします。3時前、ショッピングセンターに行きました。中程にある2km位の長さのカナル(水路)の終点は直径15m位の広い丸い池になっていて、天井はガラス張りの大きなドームになっています。その池の周りには服飾店やコーヒーショップが取り囲み、池の横でコーヒーブレイクをします。水路にはベニスのようにゴンドラが浮かび、親子などが楽しげに遊覧しています。3時になると、突然、天井のドームにパイプから水か流れ出し、空いた穴から大量の水が渦巻いて滝のように落下してきます。お茶を飲んでいるテーブルまで霧が漂い々と地響きがします。その音は最終日を過ごすには丁度タイミング良く、体に響き、ラッキーで心休まる気持ちになりました。      
 4時半から、残りの時間を考え、ぶらぶらと途中の店を覗きながらフードコートに行き、シンガポールの代表的な食べ物であるチキンライスを頼み、その他にも、ゾウリエビや野菜炒めも別の店で手にいれ、チョッピリだけ豪華な最後の晩餐としました。
 7時にフロント前に迎えが来るとのことでしたが、待てど暮らせど7時半になっても来ません。代理店に電話しても、もうすぐ到着しますとの一点張りで、まるで蕎麦屋の出前状態でした。30分以上も経ってやっとジュディさんと言う女性のガイドが到着。交通渋滞だったとのことでした。時間が迫っていることもあり直ぐにバスに向かいます。バスは到着時のものと違い大型バスです。他には親子の一組が乗っていました。ひやひやしながら飛行場に到着し、チェックインしました。空港での買い物は十分な時間も無くできませんでした。その上、搭乗口でのチェックインでトランクを開けられて、びっくりするほど厳しく調べられて飛行機に乗り込み一路東京です。

広島だより  11.03.2711.05.30up
 今日も、レストラン・ライズの一段高くなっているバーエリアで朝食を摂りました。昨日と同じように朝日新聞を持って来てくれたので、食事の後読ませてもらいました。そして、じっくりと天井に下げられたパイプで造られた大きなオブジェを改めて眺めました。レストランはいくつもあります。
 ロビーレストラン
 今日はチャイナタウンに行こうと、支度をして出かけます。チャイナタウンは、長い歴史の中で出来ている街ですから、再開発などで小さな店舗が集約されてビルになり少しずつ変化はしているものの大まかな配置は変わっていません。タクシーでホテルを出て左折後北上し、チャイナタウン・ポイント前で降り、そのビルの3階の有名なハンコ屋さんで自分の名前のハンコを彫ってもらいました。良さそうな印材を選んで、名前を書いて彫りを頼みます。彫るのに1時間ぐらい掛かるとのことで、街を一回りしてきます。

昼食を食べようと、昔も行ったことのある蘭州拉麺に行き、店の看板のジャージャー麺と小籠包を頼みます。客から丸見えの奥の厨房では作りたての麺作りのパフォーマンスが行われています。麺材を両手で何回も引き伸ばしそれを繰り返して細い麺にしています。ジャージャー麺の味はまあまあでしたが量がもっとあると良いと思いました。
      蘭州拉麺
 今回の、隠れた目的の一つでもある中国茶や道具を見つけに、エリザベス女王も訪れたことがあるという格調高い専門店ティーチャプターに行ってみました。入口を入ると様々な道具などが展示されています。しかし、並べられているものはとても高いものばかりで私には手が出そうにありませんでした。聞くと、2階でお茶を飲めるとのことで上がり、程々の値段をとられましたが、そこで一服しました。日本の茶道のように飲み方のルールがあり、最初に店の人から説明を受けます。あっという間の説明で、十分には理解できないまま一人で手順を想像しながらお茶を頂きました。どちらかといえば抹茶の方が私には合っているかも知れません。目の前に置かれた道具の茶盤を何とか今回欲しいと思って来たのですが、この店の品質は良いのでしょうが少々高すぎます。
  

 その後、延々と歩きブレア・ロードの骨董屋グアン・アンティークを目指します。ここには嘗てブラナカンのコミュニティがあった地区で、昔はババハウスが立ち並んでいたのでしょう。途中、改修中の家が何軒かありました。改修が終わったら見学できるのだと思います。有料ですが、見学の出来る家もあります。間口に比べ奥行きの深い住宅です。ブラナカンは、嘗て貿易でかなり儲けて成功した現地の女性と結婚した中国人達を指します。そして、ババは、ブラナカンの主人のことでその奥さんをニョニャと言い、ニョニャ料理はシンガポールの代表的な料理として知られています。その人達の一時代が終わり、彼らの持っていた食器や装飾品が売りに出され、この様な骨董店に並んでいる訳です。歴史的な時代を示すブラナカンのひとたちが愛用していた食器はアンティークとして今大変高価でもてはやされています。美しい淡い色の陶器で買えるか値段を聞きましたが、小さな小皿で80~100ドル近くします。欲しいけど残念ながら今回は諦めることにしました。
       
 工事中のババハウス
 この日は、かなり歩きまわったので随分足も疲れました。9時半頃に、やっと、プールに入ることが出来ました。あたりは暗くなっており泳いでいる人は10人程度で広々としていました。生温かいプールの水は海水の様で舐めるとショッパイ味でした。地上200mの宙に浮かんだプールで、光り輝く街を眼下にして頭をからっぽにしてふわふわと泳ぐのは最高の気分でした。

広島だより  11.03.2611.05.30up
 滞在2日目です。1号棟1階のメインフロントの近くにある、天井の高い朝食用のレストラン・ライズで朝食を摂りました。一段高いバーエリアがあり、係りの女性に案内された席に着き、きょろきょろと天井や周りを眺めていると、気を利かして朝日新聞を持って来てくれました。震災記事に埋め尽くされていましたが隅々まで見落としがないように眺め、図らずも久しぶりにゆっくりと朝食の時間を過ごすことが出来ました。
 レストラン・ライズ

 外は今日も雨は降らず日差しもあり、段々と暑くなってきていましたが、10時過ぎに、街を眺めがてら買い物もしようと、到着日の朝早く訪問したアラブ・ストリート地区のシンガポール最大のモスクであるサルタン・モスクを訪問しました。入口に三人の人がいて服装のチェックをしています。宗教上、ノースリーブで腕を露出することやショートパンツで足を露出することなどが禁止されています。ルールに違反している人は、入館するためには入口で肌を隠すマントを借りて着なくてはなりません。確認したところ写真撮影については撮影可とのことでした。イランでは(と言うよりイスラム寺院など宗教施設は普通これが多いのかもしれません)イスラム信者でないとモスクへの入館や撮影も拒否されたりした時もありますので、この緩やかな対応は逆に驚いたぐらいです。
 

 お昼には少し早かったのですが、モスクの直ぐ近くのミナンという道路の角にある評判の地元料理の店に行って軽い昼食を摂りました。1階のショーケースの中には多くの料理が並べられて、好きな皿を取って食べる方式で日本の昔の食堂のようです。2階に上がり店員にメニューを示して何とか頼みました。鰺のような魚を揚げたものに唐辛子の辛いソースがかかったものと肉団子入りのスープとご飯そしてお茶を頼みました。魚の唐揚は結構美味しいと思いました。
  レストラン・ミナン

 その後、来る前からの目的の一つで、到着時にモスクの近くに発見した雑貨屋メローズ・キュリオスに行きました。4年位前に偶然訪れた時、この店で30㎝弱の青銅製の鶏を買って帰りました。後で知ったのですが、この店は結構気の利いた雑貨が揃っていることで知られたている店だったようです。どのガイドブックにも掲載されていました。買って帰った鶏がテーブルの上で存在感を示し、思いの外良い姿で大変に気に入っていて、是非とももう1羽揃えて番にしようと思っていたのです。しかし、インド人の店主にあちこちに電話して探してもらったのですが、残念ながら見つけ出すことは出来ませんでした。その後、何か面白いものがないかと周辺の店舗を何軒も覗いてみました。
 その後、一旦ホテルに帰り、屋上にあるスカイパークを見に行きました。地上200mの宙に浮かぶ船のような形をし、全長340m、幅38mの空中庭園です。プールに入れるのは宿泊客だけに限られていますが、プールサイドの庭園部分は一般の人達も入場できるため、大変な賑わいです。上にあがると入場監視員がいてチェックをしています。部屋のキーカードを見せて入ります。左側に折れて進むと船形の先端の66.5mのキャンチレバーに行くことが出来ます。二層になっていて下の階の木のデッキが展望スペースになっており先端部と周囲の縁をぐるりと取り巻いています。上の階にレストランがあり、その下のデッキ階にグッズを売っている土産物ショップがあります。デッキからは黒川記章設計の地上165m、30人乗りの観覧車シンガポール・フライヤーが眼下に見降ろせます。もう1度入口に戻りプールサイドの方に出ます。150mの長いスイミングプールを右側に一望しながら250本以上の樹木と650の植栽が植えられているプールサイドを進みます。プールの水のオーバーフローは街側に作られた溝へ流れ落ち、水面の先はシンガポールの高層ビルの街並みと空となっており、泳いているとまるで宙に浮かんでかのようです。プール先端の縁にいる人達が落ちそうで見ている方はヒヤヒヤします。しかし、プールに入って分かったことですが、実際にはプールの縁から4m以上のスペースが下にあり建物からは落ちないようになっています。プールサイドの板張りデッキにはデッキチェアーが数多く置かれ色取り取りの水着姿の人達が大勢休んでいます。
 

  
 空中庭園を隅々まで探索して、時間を費やしていると夕方になってきたので、次は道路を挟んだ反対側のエリアを探索します。二つの劇場やカジノを横目に見て、数キロも続くショッピングアーケードを奥の方へ進みます。途中、ちょっと気になる店をあちらこちら覗きながらの散策ですから時間もどんどん過ぎていきます。日も落ち天井のドーム型のトップライトの外も十分に暗くなってきます。一番奥のフードコートで食事を摂る事にし、どこの料理にするか探します。少し歩き疲れていたこともあり夕食は軽くすることにし、今夜はベトナム料理のフォーにしようとスケートリンクの真横にテーブルを確保しました。フードコートでは荷物を持っていると注文した料理皿を持って席を確保するには一人では結構大変なことが分かりました。フォーはスープも麺も胃袋にやさしい食べ物です。  フードコートのフォー

広島だより  11.03.2511.05.29up
 日本との時差は、マイナス一時間。機内で時計を戻して到着を待ちます。早朝6時半頃チャンギ空港に到着し、殺風景な長い通路を歩いて出口に向かいます。開いている窓からムッとする生暖かい空気が押し寄せてきます。朝一番でこうですから、日中は相当暑そうです。外への出口が3か所もあり、出迎えのガイドさんを探しうろうろします。出口3カ所は予想外のことでした。
 ラーさんという日本語のできる50代の男性のガイドさんに何とか巡り合い、その案内で送迎の小さなバスに乗り込みます。いくつか質問をしましたが十分な答えがもらえず、言葉が通じていない様にも感じて、一抹の不安を覚えました。バスにはそれぞれ違う企画の客が3組相乗りでした。この旅は、フリープランではありますが、到着と帰りの送迎バス付きです。チェックイン前の午前中は、お決まりの短い市内観光と入り口扉に鍵を掛け監禁状態で見せられる宝石工場訪問です。先ず、モスクやアラブ系の人達の店が多く集まっているアラブストリートに行きましたが、当たり前のことながら7時前というあまりにも早い時間でしたので、まだどこの店も開いていません。有名なサルタン・モスクも早過ぎて門が閉まっていました。段々と生暖かくなる空気の中、静まったモスクの前で知らない者同士が手持無沙汰に時間を潰します。その中で、今回立ち寄ろうと考えていた、民芸雑貨品の店を通りの中に発見して僅かながら収穫はありました。また、ホテルに着けば別れて、二度と会うこともないかもしれない同乗者と多少の自己紹介をしました。
         早朝のアラブ・ストリート

 その後、シティ・ホールのあるシティ中心部に行き、ラッフルズ卿上陸地点からシンガポール川の対岸沿いに並んだ嘗ての倉庫街を再開発した色取り取りの美しい外壁のボート・キー地区を遠望します。この地区は近年美観地区として再開発され、おしゃれな店舗が出来て賑わっています。その途中、今夜泊まるホテルの姿が遠くに建物の間や木々の間から何回も遠望出来て早く行ってみたいという気持ちも高まってきます。
  ボード・キーホテル遠景

 次に、中華街に行き、同じように街を少し散策した後、お寺の前の再開発ビルのチャイナタウン・コンプレックスの中で朝食を取ります。ビルの真中に、数多くのテーブルが並び誰でも座ることができます。それをキッチンだけの150程度の小さな食堂がぐるりと取り囲み、活気を呈しています。店で好きなものを注文し、好きなテーブルに運んで食べるのです。私はおいしそうな店を選びお粥を頼みました。こちらでは朝食は外でとるのが一般的な様で、大勢の客がのんびりと忙しく麺やお粥をすすっています。
 昼食は、12時からラッフルズ・ホテルのティフィン・ルームで取ることになっていたのですが、市内観光などで時間を潰すにはあまりにも飛行機の到着時間が早過ぎて、10時ぐらいには終了し、2時間余りも時間を持て余してしまいました。エアコンの効いた涼しいラッフルズ・ホテルのロビーで待たせてもらおうと行ったのですが、ここは歴史のある格調高いホテル()ですから、宿泊客でないと自由に出入りできないということで、暫くすると追い出されてしまいました。しかし、レストランを予約しているのですからロビーで待たせてくれても良いのではと思いましたが、暑くなった外のバルコニーで時間を潰す羽目になりました。ラッフルズには昔、泊まったことがありますが、やはりこういうホテルは客として来なくてはいけません。昼食は、カレーのフルコース()でした。元々、ティフィン・ルームはカレー専門店だったそうです。
 ラッフルズホテル

 やっとのことで、2時ごろ目的のホテルにチェックインできました。出来るだけ上の階の部屋にしてもらおうと希望を言いましたが、当然のことながら料金が違うので同じ料金の部屋の中で一番最上にある階の21階を確保しました。先ずは、部屋で休憩し一息入れて街に出かけます。
 館内の広いロビーなどを散策した後、タクシーでオーチャードロードの高島屋ショッピングセンターに向かいました。地下に有名なTWGの支店があるとのことで、そこで先ず紅茶を買おうと考えたのです。店でテイスティングが当然出来ると思っていたのですが、やっていないとのことで、飲めるところを聞いて、一番近いTWGの喫茶店を教えてもらいそこに行きました。かなり地下街を歩いて何とか店を見つけ出しました。No33の紅茶のケーキセットを頼み楽しみましたが、かなり混んでいました。客は地元の人やここに住んでいる外国人などが多くかなり繁盛しています。帰りにNo33を2パック量り買いしてきました。
    TWG喫茶店と紅茶
 
ホテルに帰りましたが、あちこち歩いて疲れので、夜は軽くとることにしてフードコートを探索します。行く店の目星をつけ、夕食には少し早いのでスカイパークを覗きに行きました。プール越しの超高層の立ち並ぶ街並みの夜景は宝石の様で何時まで見ていても飽きない景色でした。
    プール越しの夜景


広島だより 11.03.2411.05.29up

 先ずは、今回東日本大地震に被災された方々に対し心からお見舞い申しあげます。被災地には知人も多く居り、直後何人かの人には電話したりしましたが、通じませんでした。大丈夫だとのメールを貰ったのは数日後のことです。気になっている人はまだ残っています。
 さて、短期間ではありましたが、3月24日から29日までシンガポールに行ってきました。食べ物も美味しく、街も気楽な雰囲気なので好きな街です。今回で4、5回目の旅でしょうか?
 今回の旅行計画は、あのマリーナベイ・サンズ・ホテルに一度宿泊してみたいということから始まりました。このホテルは、ラスベガスのサンズ・ホテル社が企画し、モントリオール万博で354個のユニット式の単位居住を最高12階にも複雑に重ねて積み上げて造られたアビタ‘67という集合住宅で話題を呼んだカナダの建築家モシェ・サフディにより設計され、昨年完成しました。3棟からなる55階建てのホテル棟の、地上200mに乗せられた長い船のような形をした部分に長いプールを組み込み、プールサイドはスカイパークと名付けられ、ヤシの木も含め植栽も沢山植えられ、ジャグジー等も配された空中庭園を持つ巨大構造体で、3棟のホテル棟を一つに繋いでいます。他のものと見間違うことのない大変奇抜で大胆な形態をしたホテルです。建設会社を決める際には、日本のゼネコンも見積りに参加しましたが、その特異な形態もあり、建設コストが合わなくて、結局韓国の双竜(ソンヨン)建設が請け負いました。しかし、最後の最上階のプールの部分を作る段階では、技術力の問題で日本の橋梁工事などの得意なJFEエンジニアリングと地元の会社がJVで担当したということです。付け加えるとマーライオン側のミュージアムは五洋建設が担当したそうです。近年、海外進出している日本のゼネコンは常にコストの点で大変に苦労していますが、この例はその生き残る道を示しているようでもあります。
 ホテル自身も2560室とかなり巨大ですが、足元には道を挟んで、2000人収容の劇場(ライオンキングをロングラン中)や1万5000㎡もあるカジノや蓮の花をイメージさせる6000㎡のミュージアムや300店を超える有名レストラン・ブランド店からなるショッピングセンターやアイススケート場を取り巻くように造られている世界の食の揃うフードコートなどからなる超巨大な商業コンプレックスを抱えており、全体を単に歩くだけでもかなりの時間を要します。現在、様々の国から来た大勢の客で賑わっています。カナダのアビタとこのホテルは何から何まで全く傾向の違う作品ですが、そのホテルの特異な形態や設計の考え方を少しでも知るためには、一度は泊まってみるしかないだろうと考えたというところです。
 また、ホテルの海側の広大な敷地では、アニメ映画の場面から抜け出したようなガラス張りの巨大な虫のような形をした植物園だという2棟の温室や周辺施設が建設中で、その現場がホテルから見降ろせます。完成した全体像を見てみたいものです。付け加えると、海に浮かぶ船の多さにこの国の凄さを感じました。
       

 今回、かなり前から周到な検討をし、仕事との係わりの一番少ない時期を選び、手続きや旅費の支払いもとっくに過ぎた時期、出発直前の3月11日に東北地方東海岸に未曽有の巨大地震・津波・原発の同時発生が起きました。その被害の大きさが刻々と分かるにつれて、このような状況の中で行っても良いだろうかなどと、間際まで遂行を色々と迷った挙句、やはり行くことに決めて当初の予定通りに行ってきました。その迷いはこの報告を書くことにも影響し、HPへの掲載もゴールデンウイークにはと思っていましたが、既に3か月近くが過ぎてしまいました。とは言え、かなり記憶が薄れてきていることもあり、忘れてしまわない内に記録しておかなくてはと思いこれを書いています。付け加えますと、出発前の天気予報は雨季ということもあり全て雨とのことでその点だけは心配でしたが、全日雨無しでした。なお、コラムの記載日付は実際の滞在日付としています。 地震発生から10日を少し過ぎた3月24日の深夜、複雑な思いを抱えながら羽田の新しい国際線ターミナルから出発しました。航空会社は全日空で、機中、到着までは気楽な気持ちで過ごすことが出来ました。目が覚めれば、シンガポールのチャンギ空港です。

広島だより 10.11.28
 よいよイギリスの最終日、旅の終わりに近付いてきました。今日の午後に飛行機に乗ると明日は東京です。また、いつもの忙しい毎日に戻ります。今回の旅は、あのイギリスにも関わらず全く雨に遭わず大変にラッキーでした。晴れ男を自任している私としては嬉しい限りです。短い旅の途中に雨に降られたりするとその日の予定が狂ってしまい惨めな気分になります。やはり初日に見た大きな虹のおかげでしょうか?これで今回の旅行記は終わりです。
 今回の旅を少し振り返ってみますと、全体的に大変に良い気分転換になりました。しかし、帰って以来10月は休み無しの連日で、少し体調を崩してしまいました。とは言え見たいと思っていたところをかなり見ることが出来旅でぜひ近い内に再度何とか時間と旅費を作ってきたいです次回は、コッツウォルズなどもう少し長い時間を取ってじっくりと重点的に見るなど次の計画を考えいます。
 ロンドン建築デザインは、このところ大きな変わり目を迎えているのかも知れません。ある意味、完成された古い歴史的建築群の中でロイズビル以来、ドックランズそして最近のビッグアイなどの斬新なデザインは市民に大いに刺激を与え、それは景観への賛否両論のきな議論を巻き起こしそれに耐え今では何となく街に馴染んでいるかに見えるのは、建築そのものの持つ総合的なデザイン力やイギリス自身の持つ文化的な許容力なのかもしれません。古い街並みの中に新旧の混在した、ある意味雑多なデザインなどが今迄の古いの建築群にもむしろ大いに活力を与えているか見えます。特に、フォスターの最近の特徴的な幾つもの仕事は素晴らしいものばかりす。また、今回は基礎工事の現場しか見ることが出来ませんでしたが、これから完成予定のロイズビル道路を挟んだ真ん前に建設中のロジャースなどのシティの二つの超高層ビルは完成したら見に行くしかないでしょう。
 イギリスは、何故か相変わらず身も心も馴染む場所です。体質に合っているのでしょうか今年は無理としても何年かに一度はきたい国です。それが叶えば大変に嬉しいことです。また、行きたい処はコペンハーゲン、ヘルシンキ、ベネチア、フィレンツェなど数えればきりがありませんが、今年中にもう一か所、アジアでも構わないのでどこかに出かけたいと考えています。

広島だより
 10.11.27

 いよいよ最終地、ロンドンです。明日、明後日は帰国のための移動となるので実質今日があちこち見ることのできる最後の日です。頑張ってるぞ~と言う感じです。前にも書きましたが、ロンドンは30年ぐらい前半年間住んでいたことのあるで、中心部の地理は今でもあの角を曲がると何があるという程度のことはおおよそ分かります。学生を連れて来て新旧の建築群を見せてやりたいと思っている都市の一つでもあります。
 午前は、久しぶりの大英博物館を少し覗きました。滞在時にもよく通ったものですが、何回行っても興味深いものが数限りなくあります。日本の美術品も多数あるのですが、昔、見た折、日本にも少ない国宝クラスの正宗などが何本も展示されて、日本刀好きな私としてはなぜこれらが流出したのかと残念な思いで一杯でした。入口を入ると白い丸い形の図書館が現れます。その前は立派な古いライオンの彫刻が置かれた大ホールとなり、売店なども図書館の下に在ります屋根は全てガラス張りのトップライト、とても明るい空間となっています。図書館の周囲を展示室がぐるりと取り囲んでいるのですが、四年前に大改築が行われたとのことで、前に行ったのは四年以上前になることが分かりました。
         大英博物館の玄関とホール
 また、ロンドンに来た時には良く行く博物館の直ぐ隣のロンドン大学の横の本屋さんやリーバの書店(王立建築家協会の本屋)に行きたかったのですが、建物を見に行く本来の目的もありあきらめて、少し早めの昼食を取ろうと中華街に出かけました。何時も良く行くベトナム料理屋に行き、生春巻きとフォー(何故か懐かしい)、ビールを頼み美味しい昼食でした。この中華街に来ると中華ももちろん美味しいですし、なぜかホッとします。
 昼食後、腹ごなしにピカデリーサーカスからオックスフォードストリートを歩き、できたら土産をと思い、ウインドーショッピングをしました。リージェントストリートも全体的な風景は変わっていないのですが、く行っていたスコッチハウスが見当たらないなど、やはり変わっていないようでも様々な変化があることが分かります。
 先ずは、葉巻の様な形をしたガラス張りの建物に向かいます。シティ地区の地下鉄バンク駅で降りて駅員に一番近い出口を聞くと4番出口と教えてもらったのですが、行ってみると出口が板張りされて塞がれており、結局3番出口から出て証券取引所をぐるりと回り保険会社・ロイズビルの方角を目指しました。シティは大英銀行や証券会社など金融関係の会社が集中している世界的に有名な地域ですが、2005年には爆弾騒ぎのあったところで、直後にたまたま行く機会があり、リバプール駅やロイズビルのすぐ近くの道路に道路半分程度大穴が開いているのを見たことがあります。この時は、アラブ系のテロでしたがイギリスはIRA問題など抱えていますから危険はいつも隣にあるかもしれません。 全体的に見てみると、ロンドンはロンドンなのですが、近年、活発な再開発等で古い街の中に最新のビルが混在しているところでもあります。昔、シティに建っているステンレスとガラスの多用された設備配管やエレベーターなど剥き出しのリチャード・ロジャース設計の高さ88mで14階建てロイズビルを見てそのコンセプトやデザインにショックと刺激を受けたものですが、最近の特徴的なデザインのビルラッシュには驚くばかりです。ロイズビルの直ぐ斜め前に建ち、市民がガーキン(キュウリのピクルス) あるいはエロティックガーキンと呼んでいる葉巻か筍のような形の高さ195m41階建ての超高層ビル、スイス再保険会社本社ビルやタワーブリッジ袂の再開発地の一角に立つ卵がひしゃげた様な新シティホールなど街並みの中際立っています。いずれもノーマン・フォスターの設計です。テームズ川にかる映画でも見たこともあるミレニアムブリッジも彼のデザインです。ガーキンビルはその形ゆえに景観論争も巻き起こしたそうですが、古い街並みに妙にしっくりとしています。ロンドンの面白さかもしれません。また、ロイズビルとスイス再保険会社本社ビルの間に、ひょろ長いバチの様な台形の形をしたビルと紙を斜めにずらして丸めたような大変に大胆なデザインの超々高層ビルの現場が現在隣り合って二つ進行しており、一つはロジャースの高さ240mで48階建てのリーデンホールビルともう一つは高さ305mで60階建てのコーンダーセンのピナクルビル(ビショップゲートタワー)です。二つとも事務所ビルですが、これが完成するとシティに名所がまた増えることになります。特にフォスタの活躍は目を見張ります。この一角は大変に注目です。下右の予想図、真ん中の抜きんでて高い二つのビルが建設中のものです。
         インターネットより予想図
   ガーキンビル        ロイズビル   一番高いビルがピナクルビル、右がリーデンホールビル かつては、テームズミードや広大なテームズ川河口一帯の造船業衰退後のドックランズの再開発が注目を浴びており、何回も見に行きましたが、今では少し焦点が中心部に移動しているかもしれません。ドックランズは現代建築嫌いのチャールズ皇太子に批判されたり、IRAの爆弾騒ぎで大変な時もありましたが、今では高層ビルの立ち並ぶ一大商業地帯となっています。この地域は一応充足したということでしょうか。
  ガーキンビルは、入口に近づくと警備員に「入れない」と言われました。例の9.11のテロ事件の日にこの高層ビルがオープンだったため、テロの標的になることを恐れ大変に警備が厳しくなった様です外観は中央部が少し膨らんで葉巻の様な形をしています。ガラスのサッシが螺旋を巻いて上にあがっています。色の濃い帯の部分は空調用のスペースとのことです。
 ガーキンビルを見た後、タクシーで新シティホールに向かったのですが、小ハプニングがありました。向かう方向が違う様に思ったので運転手に言うと「シティホールだろ?!」と確信を持って言うので一方通行などで回り道をしているのかと思い、出来るだけ近道をして欲しいと頼みましたが、着いたところは旧シティホールでした。現在も活動しているうで、紛らわしいことです。しかし、旅行者がシティホールへと言えば新庁舎の方をイメージしてほしいと思うのは言い過ぎでしょうか。手に持っているホテルでもらった地図にも新庁舎・旧庁舎の表記はありません。地図を見せ少し激しいやり取りの後、勘違いと分かり、ロンドンブリッジを渡り新シティホールに改めて向かいましたが、12ポンドのメーター料金でした。さすがに誤解とは言えそのまま取れないと考えたのか7ポンドで良いと言うので8ポンド渡して降りました。妥当な金額だろうと思います。ロンドンのタクシーは本来正確でど間違いがないと信じていましたので、びっくりしたことでした。
  数年前に来た時には、まだ敷地の整理段階で姿も何も見えなかった再開発地区に新しく建てられた10階建てのビルの間を抜けて行くと川縁にガラス張りの特徴的な形をした10階建ての新シティホールがぱっと目に入ります。月曜から金曜は朝8時から夜の8時まで入場できるのですが、この日は日曜だったのですが、丁度オープンハウスの日長い列に並んで入場できました。入口はセキュリティチェックがあり飛行場より厳し感じました。入口を通過して、奥のエレベーターで最上階の展望室に直行し、外部をぐるりと囲む展望テラスに出てロンドン市街パノラマを味わいました。目の前には右側にタワーブリッジ、左手には係留されている巡洋艦ベルファスト記念艦が見下ろせ、てきたガーキンビルもテームズ川の向こうにくっきりと見えます遠くにはビッグベンの対岸に直径最大という観覧車ロンドンアイいます。ロンドンの街並みには変化を感じま。昔はセント・ポール寺院の高さ(111を超えないにするという暗黙のルールがあったそうですが、かなり高いビルが増えてきていそれでも寺院の周辺はまだ空が空いていてそれなりのルールが保たれているようです。
         
    ロンドン新市庁舎         市庁舎の眼下のタワーブリッジ  シティ方面の景観
 展望を楽しんだ後、外壁のガラス張りの下に少しずつずれてとぐろを巻いている楕円の螺旋階段を降りながら各階の事務空間を見ていきました。この少しずつずれた踏み面幅が均一でない階段は下りていく時に奇妙な感覚を与えます。外観も特徴的ですが、ソーラーパネルなども屋根に取り付けられ、エネルギー消費量を一般ビルの何分の一に抑えたエコビルだそうです。2階には紫色のじゅうたんの敷きつめられた議場があって馬蹄形に市会議員の机が並んでいるのが上からも望めます。外壁サッシュでガラス張りになっており、手すり部分もガラスで外が見渡せるのですが、遠くにガーキンビルが階段をりていく間見えています。同じ設計者のせいでしょうか?2階には傍聴席も議会席を馬蹄形に囲んでいます。透明性を高め開かれた議会にしようとのコンセプトだったようですが大変にオープンな感じの市議会議場になっています。日本でも参考にしたら良いと思いました。地階ホール床にロンドンの大きな地図模型が作られており、大勢の人がその上に乗って自分の家や場所を確認していました。そこの先から外に出ると、石畳の広い広場で、雑誌か何かの写真のモデル撮影をしています。また、子供二人が床から噴き出す噴水を素足で踏んで歩いて遊んでいました広場の周りのコーヒーショップも日曜だったせいか賑わっていました
          
     市庁舎の螺旋階段       オープンな市議会議場     広場で水踏みをして遊ぶ子供
 今回は少し長くなりましたが、、ロンドンは急速に変わりつつあり、大変にわくわくする刺激的な街になっているというのが感想です。

広島だより 10.11.23
 今日、少し早く6時に起き、ホテルの庭を散歩しました。昨夜は食事の後、レストランの隣のバーのカウンターで黒ビールを美味しくパイント飲んだのですが、楽し過ぎて気が緩んだせいかどうか小銭入れを置き忘れてしまうという失態をしでかしました。部屋に戻り気が付いて探してもらったのですが、探しに行ったはバーの担当が変わっており見つかりませんでした。旅の途中にこの様なことが起きると少し気落ちします。しかし、幸運に朝食の時に昨夜の担当が預かってくれているのが分かり、金額がどうこうよりも見つかったことが大変に嬉し今日は良い日になるぞ!」と思ったことです。

 ラマダホテルは円筒が三つ並んだようなデザインの白い外壁が目立つスパ付きのホテルですが、残念ながらスパを利用する時間の余裕はありませんでした。また次回に来たいものだと・・・
      
   朝六時のホテル全景        カモへの餌やり      杉玉?の懸かる入口
 外に出ると時間が早いせいもあり気温もかなり下がっていて寒い感じがしましたかなりイギリスらしい気温です。斜面なった芝生の庭をずっと下がった奥に小川が流れ、親子の鴨が何羽も泳いでいました。ぐるりと庭を散歩し部屋に戻る時、ホテルの支配人が鴨に餌を与えており、足元には十何羽の慣れた鴨達が群がって餌を求めて集まってきます。立ち止まった私の足元にも餌を期待してガーガーと近づいてきます。かわいいものです。暗いうちに食事を済ませ、高速M6号線を南に下がり
4からバースに向かいます

  バース(Bath)はご存知の通りローマ時代の遺跡の浴場跡がある場所街全体が世界遺産として登録されています。浴室のbathの語源であると言われて有名ですが、こバースはローマ人が紀元前43年に侵略する前からケルト人が温泉を利用していたらしく、どうも名付けられた語源については順番が逆の様です。バースに温泉があったからバースと名付けられたということの様です。また、この場所にケルト人が後掲の模型写真の右側に見える神殿嘗ては政治の場)としてられたものをローマ人は破壊せずそのままそれを使い、そこに浴場を併設したです。浴場はあちこちに建設され軍隊維持の労働対策でもあったといいます。ローマ人が戻ると長い間閉鎖され破壊されてしまいましたが、色々な経過の後、エリザベス一世時代に温泉地として見直され、18世紀には貴族や裕福な階層の保養地として大規模に再開発されました。1775年には丘の上の巨大な集合住宅ロイアルクレセンジョン・ウッド親子の設計で建てられ貴族などの高級リゾート地として有名になりました。余談ですが、ロイアルクレセント正面はイオニア式の列柱が規則正しく立ち並び、きれいな半楕円形を示した割とつるんとした建物ですが、裏側は必ずしもそうではなくかなり部屋がバラバラに飛び出て凸凹になっている建物です。実際には、裏側は時間がないと見ることは出来ませんがその表・裏の対比も面白いと思います。
          
     ロイアルクレセント          昔の衣装の人々         パース大聖堂前の花飾り
  浴場跡は、再開発の段階でローマ時代の遺跡が発掘されたようです。バースに入る道に直するエイボン川に掛かった大きな橋を渡り右側に折れた所に建つバース大聖堂の裏手に遺跡はあります。街には赤や黄色の花があちこちの街灯の中程のポットに、大変にきれいに飾られています。教会と遺跡に囲まれた広場には昔のイギリスの上流社会の時代衣装を身につけた男女の人達が大勢集まって写真を撮る観光客も含め大変に混雑していました。温泉の鉱泉を飲む場所もあり、混雑しているようでした
  入口が小さく少し分かりにくいのですが、建物に入場した階を進むと直ぐに突き当たり光の降り注ぐ明るいプールの様なが地下に見ろせます。昔は屋根が掛かっていたのでしょうが今はありません。また、浴槽の底には水漏れしない様にが敷き詰められています。浴場は昔には地上にあったのでしょうが、良くある遺跡と同じように周囲に建物がどんどん破壊され建て替えられいつの間にか瓦礫に埋まってしまったのでしょう。現在、浴場跡は地下にあり、何か所かは光が入り明るいのですが、殆どは薄暗い空間になっています。大の周りには高い列柱がぐるりと立ち並びその回廊になっています。回廊のアルコーブ部分で昔のローマ時代の衣装を身に付けた女性が化粧品などを机に並べ、昔の風景を演出していました。平面的には大浴東と西側のが小部屋に区切られ、そこ立ち湯の深い浴槽や浅いものや丸い浴槽も含め、大小いくつもの浴室が配置されています。また、温泉だけでなく西側には冷水の浴槽もあります。その隣にも原泉今も沸いている天井の空いている明るい少し緑色をした温水の溜まった浴槽があり、全体的な規模としては大変に広いものです。造られた時代は、ローマ時代の浴場と同じように貴族たちの社交場として使われており、政治の場でもあったようです。
           
      化粧品売り         大浴場とパース大聖堂     ローマ時代の再現模型
 30数年前、ロンドンにる時にもバースに行く計画は何回かあったのですが、やっと叶い嬉しいことです。2000年の時間の流れを目の当たりにることは大変に自身に影響のある嬉しい楽しいことで、若い時代に経験できればなお素晴らしいことと思います。
 次は、使われている居城として世界最大のウインザー城に向かい、その後はロンドンのホテル直行です。

広島だより
 2010.11.20
 今日は、いよいよコッツウォルズです。テレビやビデオで何回も見ていた美しい景色を目の当たりにすることができました。コッツウォルズとは「羊小屋のある丘」という意味の様です。風景の中に見えるのは羊がやはり一番多いように思いますが、美しいなめらかな緑のビロードの様なイギリス特有のなだらかな丘陵地帯に、尖り顔の羊や牛や馬が草を食む姿はもうそれは大変に美しいものです。
        
         羊や牛や馬が草を食む緑のなだらかな丘陵地帯
 コッツウォルズは特別自然美観地域に指定されており、グロスターシャーに属する面積が一番広く、他5つの州の大変に広い丘陵地域に跨っています。この地域には、イギリスの古い街並みが美しく保たれた数々の村々が程々の距離を保ちながら点在しています。そして、この地域の建物はライムストーンあるいはコッツウォルズストーンと呼ばれる黄みを帯びた蜂蜜色の石で造られていて、表面は長年の雨風に曝され僅かにくすみ、何とも言えない温かい感じの風合いを見せています。周りの何となく煙った様な緑に溶け込むこの独特の色合いもここが好まれている理由かも知れません。

 また、帰って気付いたのですが、初日のストラットフォード・アポン・エイボンもこの地域の最北部で一部に含まれるとの説もありますが、美しい茅葺屋根や木造の柱・梁の構造が白壁にくっきりと映える観の家も多く様々の周辺の文化が入り混じっている感じでした。
 さて、最初に訪れたバイブリー村は、英国のモダンデザインの父とも言われ、詩人であり工芸デザイナーでもあったウイルアム・モリス(18341896)に「世界で一番美しい村」と言わしめた所でもあります。村に入った正面に緑の蔦に覆われた2階建て(一部3階)のスワンホテルが村の核の様に静かに佇み、その前にコルン川が流れています。直ぐ前には鱒の養殖場がありますが、この川を含めスワンホテルの占有権を持っているとのことでした。川は幅約6~7m、水深50㎝程度で水底の石や水草がはっきり見えるくらい透き通り、鱒が泳ぎ白鳥や子連れの鴨が仲良くゆったり、ちょこちょこ泳いでいます。その流れに沿って街並みがそっと静かに並んでいます。家並みの後ろには4階建ての建物の三倍(30m程度?)はあろうかという鬱蒼とした大きな木々が立ち並んでいます。これらの圧倒的なヴォリュームの緑の木立に埋もれ、陽射しがスポットライトの様に射して浮かび上がる家並みの景色は空気感を含め何か異次元を感じさせる程幻想的なものです。帰国して写真を眺めていますが、やはりその場で肌に感じた感覚は、言葉ではうまく伝えられない気がしますし、緑と建物が溶けあうその姿はきっとその場に立つしか感じることが出来ないのかも知れません。
        
    スワンホテル      緑に埋まる家々     アーリントン・ロー
 川の下流に沿って村の中ほどまで歩くと小さな石橋があり、それを渡ると14世紀に建てられたというアーリントン・ローと呼ばれる二階建ての長屋が先ず見えます。奥まった先は丘で、何軒かの住宅が丘の上まで続いており、この一帯が小さな集落の様です。長屋の前に小さな小屋があり、その壁に集落名のプレートが掲示されていました。勿論、住宅は壁も屋根も蜂蜜色のコッツウォルズストーンで造られていますが、さすがの年月にかなり色合いも風化しています。建物は階高も低く窓は小さく室内は少し暗いかも知れません。窓が小さいのは石造りの宿命でしょう。各戸の玄関前には可憐な美しい花が植えられていました。石橋に近い一番手前の住宅の庭には色取り取りの花が植えられ、洗濯物が干され、人の住んでいる気配が漂っていました。印象としてはかなり小ぢんまりした村です。帰り際、スワンホテルの前で結婚式を済ませたばかりのグループが写真を撮っているのを見かけました。養鱒場横の売店で絵葉書を買って次の村に向かいます。

 次は、リトルベニスとも呼ばれているボートン・オン・ザ・ウオーターで、人口4千人とこの辺りでは大きな村の様です。幅12~3mで50㎝程度の水深ですが多くの鴨が遊び、透き通った水の流れるウインドラッシュ川が村の中心を流れ、流れには幾つかの石橋が架かっています。川沿いに成り立っている村が多いのは日本と同じかも知れません。
       
     ボートン・オン・ザ・ウオーターの美しく整えられた風景      川面に垂れる柳の枝
 先のバイブリー村とはかなり印象が違い、人の手が入ってきれいに整えられた清楚な感じの美しい村です。川沿いには遊歩道があり、幾つかのベンチが置かれています。そこに座りこの風景に静かに浸っている人達がいる一方で、この日は多くの観光客も見かけました。遊歩道の外側には美しく刈り込まれた芝生があり、その中に大きな木が立ち並び川沿いに生える柳の枝は川面まで垂れ下がっています。目抜き通りが川に沿って走り、両側に立つ街灯の中程に美しく彩られた花籠が下がっています。道に沿って店舗やレストランが並び、庭は美しく刈り込まれた緑の芝生で、鮮やかな色取り取りの花があちこちに置かれています。少し通りを入るとレストランの隣にクラシックカー博物館があり、もう一本裏通りに入ると骨董店などもありましたが、訪問時間が少し遅かったせいか殆どの店は閉まっており残念でした。この街のカフェテラスでのんびりと、時間を気にせず美しい景色に浸りながら午後の紅茶を楽しんでみたかったなと思います。その後、あちこちを散策し今日のグロースターのラマダホテルへ向かい南下します。

広島だより 
2010.11.14
 今日は、今回の旅の目的のひとつ、ピーターラビットの世界として知られている湖水地方への自身二度目の訪問です。一度目は何年か前になますが、幾つかの小さな村の町並みを見てさっと通り過ぎただけだったので、いつかもう少し詳しく見てみたいと思っていました。この日は、雲も少しありましたが、概ね晴れていました。空には足早に曇が流れ、刻々と変化するイギリスの典型的な天気で、日が射している分まあまあの良い天気です。
 朝7時に食事をとり、9時40に出発しました。湖水地方はイングランドの北西部カンブリア地方に位置し、幾つかの郡にまたがる地域で、1951年に国立公園に指定されました。渓谷沿いには16の大きな湖と無数の小さな湖があちこちに点在しています。これらは氷河期に氷河によって削られて出来たもので細長く深い湖も多い様です。途中、この地方特有のブルーグレイ色のカンブリア石で積み上げられた風情のある石造りのウィンダミアの古い町並みを抜け、英国で一番大きく水深67mのウィンダミア湖の船着き場に着きました。船着き場には何艘もの遊覧船が待機しており、それぞれのコースに乗り込むのを待っています。また、湖水に姿を映して幾つかの石造りの雰囲気のあるホテルが佇み、水際には白鳥が幾羽も遊んでいます。
        
   ウィンダミア湖の船着き場     ウィンダミア湖半の風景      レイクサイド駅
 湖水は幅数キロの細長い湖で、遊覧船スワン号に乗り30分位のゆったりとした船旅で湖の長辺を進んで行きました。少し寒い感じもありましたが、船旅の間中、最上階のデッキに出て風を受けながら、湖畔詩人と呼ばれたワーズワースの愛した美しい景色をしばし見惚れていました。到着した船着き場には美しい花に飾られた鉄道の駅があり、今度は懐かしい蒸気機関車に乗り替えレイクサイド駅から20分程の昔の日本を思い出させるのどかな汽車の旅をしました。次はポターの住んでいた家ヒルトップに向かいます。
 ヒルトップは、ピーターラビットなどの絵本作家として世界的に有名なビアトリクス・ポター(1866~1943)がロンドンから移り住んで作家活動をした農場です。現在、家はナショナルトラストに寄贈され、この地域一帯は湖水地方国立公園の一部となっています。ポターについては、2006年(日本は2007年公開)「ミス・ポター」のタイトルで作家活動やピーターラビットの生まれた背景などを含め映画化されたのでご存じの方も多いでしょう。ポターをレネー・ゼルウィガーがとても良く演じていました。
 門を入り、管理事務所の建物横を通り、赤や黄色の色取り取りの花々に縁取られた長い緩やかな勾配の長いアプローチを上っていくと、玄関入口は、ブルーグレイのカンブリア石の大きな一枚板を組み合わせて作られおり驚かされました。外壁は緑の蔦が這い、有名な作家の家にしては小ぢんまりした二階建ての家でした。もっともそれが彼女の生き方の姿勢を感じさせます。隣接して納屋か馬小屋があり、今でも農家の機能があるのでしょう。少し暗い家の中に入ると、やはり天井の低い造りでした。入口を入って直ぐ左に居間があり、右に書斎(ここで作品が生まれたのでしょうか?)、奥に台所がありました。奥の階段を上がり二階も見ましたが、寝室を含め大小4室の部屋がありました。寝室と1階の居間に日本の古い漆塗りの家具を三竿見かけたので聞いたら、日本のことも好きだった様です。古い日本の漆塗りの家具は、ヨーロッパのお城などを訪問すると良く見かけます。
                    
           ポターのヒルトップの玄間       隣接する納屋・馬小屋

 この地域には、面長の顔に特徴のあるハードウイック・シープがゆったりと緑の草を食み、モルタルを全く使わないで造られているドライ・ストーン・ウォールと呼ばれるカンブリア石の石積み塀で囲われた牧羊場などが、美しい緑の丘陵の点景として一帯に展開しています。晩年には、その美しい自然・風景を愛しその保護を考え、また乱開発をやめさせるために、絵本で得た印税の多くをつぎ込んで15の農場、4000エーカーを買い取り、この地域の美しい自然が失われないように努力し自然保護活動家として有名になった人でもあります。生きた時代が少し遅いので一緒にやっていた訳ではないですが、彼女は、ワーズワースなどに続き今では世界的な運動となったナショナルトラスト運動の創始者の一人でもありました。今夜も宿泊するケンドルも含めこの地域に鉄道を引く計画があった時にも、鉄道が敷かれればどんどん人が入ってきて自然破壊が促進されてしまうということで反対運動をしましたが、鉄道は結局一部分出来てしまった様です。それでも、彼女らの運動のおかげで素晴らしく美しい自然そのままの景色が今でも保たれています。
 この後、桂冠詩人ワーズワース(1770~1850)のタブ・コテージ(鳩の家・博物館)を訪問しました。ワーズワースはポターより少し早く200年前に湖水地方に生まれ、この地方の自然の美しさ、そして厳しさも含め愛した人で、その詩は日本の戦後の教科書にも掲載されたお馴染みの人です。
 今夜も、ケンドルの川沿いのリバーサイド・ホテルに戻ります。明日はいよいよコッツウォルズです。


広島だより
 10.10.24
 今日は、シェイクスピアの生家とその妻アン・ハサウェイの実家の訪問です。生家より茅葺のその姿のせいでしょうか奥さんの実家の写真の方が有名かもしれません。

 先ずは、8時50分にホテルを出発し、シェイクスピアの墓のあるホーリー・トリニティ教会(三位一体教会)を訪れました。豊かにゆったり流れる川の畔に佇む石造りの古い教会は眼を和ませる緑の絨毯の様な芝生や木立に囲まれて中々の趣がありました。石畳の参道の並木にも意味がある様で1本だけが並木のラインから外れていて、それがユダを現しているとのこと。なるほどこの様な表現もあるんだと思うことしきりでした。教会の玄関前から川沿いに建物周りをぐるりと廻りその雰囲気を堪能しました。
         
    三位一体教会   教会横のエイボン川     アン・ハサウェイの実家
 次は、一番右の写真、奥さんの実家に行きました。結婚してからかなりの期間、生家ではなくこの住まいで暮らしたようです。実家はかなり裕福な果樹園を持った農家だったらしく広い敷地の中に沢山のリンゴの木が植えられていました。当時もきっとこの様な風景だったのでしょう。道路から果樹園をぐるりと廻りそれを抜けると、自然を生かした庭園があり、何気なしに植えられているように見える美しい草花に囲まれた大変に趣のある茅葺き屋根の曲線の美しい大きな住宅の前に出ました。入口前の階段を数段上がり中に入り、左に折れると台所と納屋のような部屋が現れます。見上げると、使われている柱や梁や根太などが大変に細く床が落ちそうな不安を感じました。その横の階段を上ると寝室があり、そこに小さなベッドが幾つか置かれています。過去にも、ヨーロッパのあちこちで民族博物館や宮殿などでも寝室を見る機会が沢山ありましたが、大人の使ったとされるベッドの小ささにいつも驚きます。王様・皇帝のベッドもそうです。普通に横たわるには、足がはみ出しそうな大きさです。もっとも聞いた話では、昔は体全体を水平に横たえて寝る習慣はなく、枕に寄り掛かって上半身が半ば起きた状態で寝ることが多かったとのことです。また、天井の高さも手を伸ばすと届きますから大変に低く感じます。身長も今よりかなり低かったようです。今のイギリスや北欧などの人達の背の高さを考えると信じられない感じがします。

 最後には暖炉のある居間・食堂を見せてもらいましたが、家全体の広さに比べ意外と面積も狭く、床は全面石畳で冬は寒くなかったのだろうか気になりました。暖炉前には豚の丸焼の時の回転グリルが設置されており、焼き肉の香りを一瞬嗅いだように思いました。さらに、暖炉横には時計様の装置があり、焼き肉のグリルが平均的に回転するための装置との説明でした。おいしいものを食べようとする工夫はどこでも同じかも知れません。その上、部屋全体の床が暖炉側に傾いていました。なぜ傾いているのか職業柄気になり若い女性の案内員に聞きましたら、床掃除の時に暖炉横の扉を開けてザーと洗い流すのだとのことでした。直ぐに次の場所に移動し、その答えが本当のことかジョークなのか私の英語力では判断しかねましが、どうでしょうか?
 その後、ストラットフォード・アポン・エイボンの市内にあるシェイクスピアの生家を訪問しました。面するメイン通りは観光客であふれるその名もシェイクスピア通りで生家はそこの真ん中に位置しています。生家の隣の記念館から入り裏の庭を通り到着です。父親は毛皮商で製品も作ってここで販売いたそうです。
 話は随分変わりますが、シェイクスピアと言えば、昔、地域ケアをテーマに澤村先生を団長にヨーロッパをあちこち訪問していました。イギリスを訪問する時には、必ず我々に随行しコースの訪問先の企画をして頂いていた方がいました。もう亡くなられましたが、その方が、シェイクスピアが大好きで何かの折に一節を朗々と披露されていました。それを思い出し感慨深い気持ちになりました。
 この日は、ケンドル市にある流れ豊かな川の横に立つカンブリアストーン造りの外観で、そのまんまの名前のリバーサイドホテルに予定より少し早く5時半に到着し、階段横の2階の清潔な部屋に宿泊しました。ここカンブリア地方は太古カンブリア紀の石が多くとれ、羊や牛などの放牧場の囲いにモルタルを使わない独特の工法で積み上げ仕切り壁として使われており、緑のなだらかな丘陵とともに、この地方の独特な特徴的風景を作り上げているものでもあります。イギリスの映画を見ると、馬に乗った上流階級の人達が、この石の柵を飛び越している姿を見掛けた事のある人は多いだろうと思います。
 明日はいよいよ楽しみの湖水地方です。

広島だより 10.10.20
 また、書くのが久しぶりになりました。忙しさにかまけて出来なかったと良く言いますが、よく考えてみると結局それは言い訳で怠けていたことが分かります。いつも言い訳をするのも困ったものですが、今回は少し書きためて発信したいと思います。
 9月半ばに短期間ですがイギリスに行ってきました。もう一月経ちました。書くことも多いので何回かに分けて報告をしたいと思います。先ずは、二回目の訪問になった湖水地方とビデオまで買い求めぜひ一度行きたかったコッツウォルズ、そこから南に下がりローマ時代の遺跡バース、世界最大の居城ウインザー城、そしてロンドンと周ってきました。
 数年ぶりのイギリスでしたが、相変わらず(?)どこも素敵なイギリスの風景でした。もともと好きな国ですが、車窓に流れる景色はいつまでも同じ姿で変わりなく、ずっと心地良さを感じつつ旅をしました。とりわけ湖水地方の緑の美しいなだらかな丘陵に草を食む羊や牛や馬の姿はイギリスの典型的な風景として懐かしさを感じさせる風景です。
 今回は、ヴアージン・アトランティツク(VA)航空での旅でした。座席全てにビデオが見られるので、やることも無く長旅(本当に長い)の間中一睡もせず映画を見ていました。(時差ぼけの為には寝ない方が良いとか)しかし、問題もあります。飛行機の旅は狭い(他より狭い?)空間での行動となるので、周りに座る人との関係が機内での快適性・居住性にかなり影響を与えます。中席の通路側の席だったのでそれに関しては先ず良かったのですが、隣はイギリス人の若い女性でした。ビデオを見過ぎたせいもあるかもしれませんが、途中から横向きに席に座られ背中がこちらの席にはみ出して押し返す訳にもいかず困りました。また、トイレタイムも聞く訳にもいかず自分のトイレの時間を長くとって、その間に行ってもらう様に気遣いました。その上、前に座った中年女性は何の前触れもなく突然席を後ろに目一杯倒して謝る気もなく高いびきです。VAは席の前後が狭いので立ち上がるのもままなりません。色々と疲れてやれやれでした。そんなこともあり、気持ちを落ち着かせ様とビデオを見ていたということになります。
 訪問地としては、先ず、ロンドンのヒースロー空港を経て、シェイクスピアの生誕地であるストラットフォードアポンエイボンに入りました。途中、雨上がりの空に今迄に見たことのないほど幅広のくっきりとした虹を見て、今回の旅の吉兆として良いことが待ち受けているはずと期待が膨らみました。この日の宿はアメリカンスタイルのホリデイインで小ざっぱりとした部屋でした。明日はシェイクスピアの生家や彼の妻の実家の見学です。
  
  道の駅からの美しい虹


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