直線上に配置

思うこと 13.06.02
  久しぶりに書こうと思います。色々と思うことは多いのですが。
 震災後、二年を過ぎかなりの時間が経過した。しかし、テレビなどの画面を通して見えてくる被災地は未だ手つかずの所も多く、復興とは程遠い様に思う。そして、情報の量も日増しに少なくなってきている。比較するのはおかしいかもしれないが、先の戦争ではその無残な、到底復興など叶わない様に思われたその瓦礫にも一心不乱に取り組み、あっという間に復興してしまった、世界も驚嘆したあの時の日本国民のエネルギーやスピード感は見えてこない。何も無くなり風に揺れる草だけが目立つ土地の姿は寂しいの一言に尽きる。未だに、残骸の山だけが各所に残っているが何故全国で協力して減らせないのか? 徹底的に原爆で刷り込まれた恐怖感が作用しているのだろうか?いや、それだけではない様に思う。
  最近ニュースなどで、驚き、あきれて、悲しくなる報道も流されている。徹底的に行われるべき肝心の放射能の除染でさえ、手抜きなどが堂々と行われているのは、もはや犯罪である。何回も報道されているが未だにニュースになる。タダでやっている訳でもない。何故、徹底的に取り締まれないのだろうか?
  更に、嘗ては滅私の行為で取り組んでいたことにも、福祉などの制度を隠れ蓑にして私腹を肥やそうとする非人間が後を絶たないのは何故なのだろうか?今迄の日本の取り組みと何か違うのだろうか?一つには、長期にわたる国の決めた政策と現実の不一致の傷ともいうべき残骸が、あちこちの制度の歯車に引っかかったり挟まったりしてブレーキをかけているのは間違いない。そうであれば、まずそれを正さなければいけない。日本人の心は変わってしまったのだろうか?日本人が世界で評価されている良さは人間性の良さではなかったのか?私だけがため息をつき、悲しんでも何の役にも立たないのは分かっているのだが。

思うこと
A
11.09.11

 日本でも、あの11.3.11の東日本大地震と大津波による未曽有の災害から既に半年が経ってしまった。現在、死者1万5,783人、不明者4,086人という。まだまだ全国民の記憶にも生々しく、被災者にとっては現在進行形でもある。しかし、半年も経つというのに、復旧は少しずつは進んでいるはずなのだが、テレビで映し出される瓦礫の山に囲まれた被災地の風景は、あの日から時が止まってしまったかの様で、相変わらず悲惨な状況のまま何も変わってはいないように見える。未だに、陸地に打ち上げられ、所在無げに住宅地に紛れて寂しげに打ち捨てられている漁船などもあちこちに残っている。それに加え、津波に流されて行方の分からない不明者がまだ大勢残っている。中には茨城県沖や千葉県沖まで流されて発見された人もいるという。発見された方は家族などに引き取られ供養されるのでまだ良い方かもしれない。今でもボランティアの方や関係者の手で海中の捜索は続いている。
 また、原発事故の方も問題は益々複雑になってきている。当初は、放射能漏れの被爆から避難するため短期間で帰れると信じて、自分にも言いきかしながら、子供への安全や様々の理由で全国に散らばっていった避難民などの状況は、決断するにも何もかも国などの対応が中途半端で、益々日々、気持ちも疲れ深刻化していると言っても良いようだ。そして、あの福島原発そのものも誠に残念ながら未だに収束していない。その後に明らかになった、一連の他の原発建設時や再稼働時に国や県知事や電力会社が絡んだ、やらせメール事件などが暴露されて来るにつけ、私自身、薄々感じてはいたが、日本はこの様な国になり果てていたのかと、逃げ様のない事実に愕然とし腹立たしいばかりである。それにも増して、今回の事故では、東電の隠蔽体質が当初からあれだけ問題にされたはずだが、最近の会見でも半年前に当然情報公開すべきだったと考えられる隠蔽や嘘が、半年経った今でも、澄ました顔で、次から次へ小出しに出してくるのは誠に通常の理解を超えており、もう勘弁してほしい。全く面の皮が厚いのを通り越して呆れ果ててしまう。しかし、我々もこのまま済ましてしまってはいけないのだ。日本国民はもっと怒って抗議運動やデモぐらい起こしても良い時なのかも知れない。早く代替エネルギー開発への舵取りを国は本格的に取り組まねばならない。
 最近、テレビで見かける放射能汚染で避難している人たちの顔にも、除染の中々済まない故郷の土地への帰郷の願いと裏腹な、失望とあきらめの表情が垣間見えるようになってきたように感じる。未だに、総数8万人以上、福島、宮城、岩手の三県で3万6400人もの人達が避難生活を続けているという。避難生活者の増加は、各地の人口流出にも直結し、石巻市雄勝町では4.300人の人口が7割減の1.000人程度になってしまったという。この様な人口流出が続くと、土地の人々によって今まで培われてきた生活文化なども消滅してしまう事態となり地域の存亡の危機である。しかし、孫・子の将来を考えるとそれしか選択肢が無いなどの話を聞くと、胸が締め付けられる。何と言っても一番の責任は東電であろう。東電はこの様な責任を一体どう取るつもりなのだろうか?それにしても対応が遅すぎる。やっと被害申請できると思ったら、その申請書が156頁ものマニュアルを見ても書けない位複雑で、普通の人には書けないだろうという。まさかとは思うが、受付を渋っているのかと勘繰りたくなる。もっと迅速に対応しなければ、生活費に困窮する人も出てきて、更に悲劇が発生するように思い心配である。この上、自殺者などは絶対に出してほしくない。未だにどの様になるのか先が良く見えない。(追:やっと申請書マニュアルの簡易版が用意されたようであるが、とても解決策にはなっていない。)
 もっとも、帰郷する為には、暮らしを支える幾つかの方策が構築されなければそれも難しい。先ずは、土地の除染が実行され放射能レベルが低下すること、病院や買い物など生活基盤が整備されることなど欠かせない条件がある。津波で家や家族を流された被災者の多くの人達の状況を考えると、家が無い、仕事も無いという、無い無い尽くしで衣・食・住に欠けた状態である。中でも、雇用がなければ基本的に生活再建はありえない。地域の復興に取り組むためには、先ず働ける雇用の場の確保から出発するしかない。今朝のテレビで陸前高田市のスーパーマーケットが以前営業していた場所とは別の所に、役所の協力の下にやっと2年間限定で新しく建設許可され、津波で建物が流された後に解雇されていた75人の従業員が再雇用されたと報道されていた。忙しく働く従業員と共に、嬉しそうに生鮮品の買い物をする被災者の顔も映っていた。それが出来るまでの苦労話も語られていたが、乱開発を防ぐための復興建設規制が逆に急がれる復旧にブレーキになっている部分もあるようだ。将来を見据えた、災害にしっかり対処した長期的な計画も大変大事で重要なことではあるが、直ぐに日々の生活に必要な部分もある。規則に縛られ過ぎても何も前に進まない。今回の事例のように、大局的な視点で行政も判断し、地域の為になると判断できれば一時的な規制緩和も考えるなど、うまく地域として取り組んで早急に生活再建してくれることを祈りたい。国もまかり間違ってもそれを規制するのではなくむしろ支援をしてほしい。
 また、国の掛け声でお盆までに完成させるとされた仮設住宅は94%の完成率だそうだが、交通の便が悪いなどの立地のために入居率は84%に留まっているという。入居者は仮設を出た後の生活設計は今のところ全く考えられないとの話も聞く。早急に適切な支援が待たれている。仏作れど魂入れずの類であろうか?それにしても、この非常事態に何かちぐはぐな話ばかりが飛び交っている。

※少し日にちが経ったが、9月11日分を何回かに分けてアップしておこう。
思うこと@11.09.11
 今日、9月11日は、日・米にとって象徴的な日であり、デレビ番組でも日・米のそれぞれの悲劇の特集が各局で組まれ、多くのコメンテーターが様々の意見を披露している。
 時の経つのは早いもので、アメリカではあの9.11から10年目である。記憶にあるのは、まるで昨日の事のようで、10年が過ぎてしまったとは思えない早さである。今朝のテレビ番組のコメンテーターの話であるが、10年前のアメリカと日本を現在と比べると石油もドルも半分程度の価格となっているとの指摘があった。確かに、アメリカのドル安や世界的な評判など、この所の凋落ぶりが目立つこと著しい。
 今までの歴史を振り返れば、遠からずきっと同じ道をたどることになっていたのかもしれないが、あの9.11以降、アメリカのブッシュは、世界の警察官そして正義の履行者として、テロに対抗すると称しまっしぐらに戦争に突き進んでいった。今だからこそはっきりと見えることでもあるが、彼の選択はイラクにしても、いくつも大きな許されない間違いを犯した。何とアメリカ国民は寛大なことか。いつも、根底にはアメリカの国益を優先するという構図があるが故に、彼らはそれを見ようとはしない。結局は、他国民の犠牲者が計り知れないほどあろうが、説明の表に出てくるのは錦の御旗のアメリカの正義の論理である。考えてみると、これは一種の人種差別なのかも知れない。今のオバマにしても、かなり期待されての登場だったが現在は内外ともあまりうまくやっているとは思えない。
 9.11は確かに大きな悲劇ではあったが、敢えて言えば、アメリカ国民は何故あれが起きたのかの背景を直視したくは無いようである。断わっておくが、テロを正当化するつもりは全くない。むしろ、あの時世界一の国民とのプライドを傷つけられたかの如く熱くなり、冷静さを欠いて(?)、(アラブの)テロに興奮してブッシュに同調し、簡単に戦争を選択したことの方が気になる。アメリカに盾つく国は悪であるとの理念の下、世界の正義のリーダーとしての自負を高く持ち、あるいは軍事力でしか他国とのバランス関係を保てない自信のない国としての位置づけを選択し、(あまり自覚はないようであるが)、10年前よりも更に世界中から好かれない国となってしまったのではないだろうか?
 これを言うと、不謹慎と怒られるかも知れないが、単純に殺された死者の数を比較すれば未だに目には目の世界であることが良く分かる。人間の命の価値・重さは違う民族であろうが宗教や肌の色が違おうが同じはずである。しかし、そうは考えない様で、軍人が一人やられたら一般市民への誤爆であろうが御構い無しに、その何倍ものお返しをするのである。きっとそうではないと言うだろうが。インターネットで市民をゲームの様に狙いうちする兵士の楽しげにも聞こえる会話が流れて戦争の狂気を示している。また、報復は報復の連鎖を生む。国連は戦争を少しでも減らしたいなら、巻き添えで亡くなった一般市民の死者数を先ずはきちんと公表し糾弾すべきである。戦争にもルール(?)があるはずである。
 しかし、考えてみれば、彼ら自身の考える正義の意思に反し、戦争では何も解決しないことが、世界中でも理解されてきたのがこの10年ではないだろうか?もっとも、人間は残念ながら理解したことと実際に行動することは必ずしも同じではない。どの様な戦争であれ、これを正義の行為と考える限り、戦争が無くなるはずもなく、きっとまたいつか同じように繰り返されることになるのだろう。人間は賢い様でいて、残念ながらいつまでも賢くなれない動物なのかもしれない。
 それにしても、日本も大戦後66年も経ったが、何時までもアメリカの後追いをして良いのだろうか?見方を一捻りして皮肉に考えれば、べったりの日本の一貫した姿勢は長い今までの世界の歴史の中で見ると、一つの奇跡とも言えることなのかもしれない。しかし、やはり大変に心配である。近年、良く言われることでもあるが、アメリカとの関係を全面否定する必要もないが、そろそろ新しい日米関係を構築しなくてはいけない時代になっているように感じるのだが。

思うこと
 11.06.12

 今回の原発事故は地震・津波被災とセットで現在は語られていることが多いが、原発はその後の展開を吟味すれば、むしろ人災と考えるべきものであり、他とはっきりと分けて語られるべきである。
 
その意味では、一刻も早く、日本の将来のエネルギー政策について明確な方針を国民に示すべき時がきている。中でも、原発を今後どうしていくのか?継続するならどのようにするのか?あるいは、廃止していくとすればその代替エネルギーをどう確保していくつもりなのか早急に結論を出さねばならないこと山積している待ったなしである。私は将来の原発縮小あるいは廃止に向けて、何とか工夫して自然エネルギーに少しずつでも転換していくことが良いと考えているが、他のエネルギーとのバランスについても段階的調整が必要であろう。すでにドイツやスイスでは原発全面廃止国として決定し、その方向に向かっており、現在イタリアでも原発の是非について国民投票が行われている。その是非については両論あろう。とはいえ、日本も今回の事故を受け、様々の問題がはっきり浮かび上がってきた。迷惑をかけた国もある。世界中の注視の中、本気でこの問題に取り組まねばならない時期に来ている。海外への日本の原発政策の姿勢表明も早くすべきで迷っている時ではない。

 太陽・風力・水力・地熱・波などの自然エネルギーで全ての必要電力が賄えるようになれば言うことはない。日本でも風力・地熱・波動発電などに付いては、ダム建設や原発建設などの様な環境破壊や巨大予算を必要としない点で十分に可能性があるように思う。例えば、地熱発電の開発が進まない理由として挙げられるのは、温泉のある場所が国立公園に多いため開発が難しいことと温泉業者が温泉が枯渇することを心配してのことだという。地熱発電は熱だけを取り出し利用する方法で温水は不要だという。解決策はありそうに思えるのだが。そして、日本の技術を総力を挙げてすればエネルギー転換はそう遠くない時期に可能になるのではないかと考えているただし、国として本当に本気でやらねばならない。
 この所漏れくる様々の情報を聞けば聞くほど唖然とさせられるが原発を推進するためにある時期から国が集中して原発に投資をしたため、他のエネルギーの開発投資が疎かになり、他の開発が圧力とまでは言わなくても、少なくとも開発が手抜きされていたのではないかと疑わざるを得ない状況があるその後の通産省の役人そして電力会社や原発推進の学者などによる、「他の自然エネルギー効率が悪い」とか「コストが掛かり過ぎる」など声の大きい意見が主流になり、それが圧力となり、開発が遅れたのではないかと疑わざるを得ない状況である。中でも、原発のコスト他のエネルギーと比べ安全であるばかりか一番安いというのが原発推進派の大きな主張であ、それが流布され、国民も信じさせられていた。しかし、税金コスト反映されていないなどで賄っている地元対策費としての箱モノへの補助金や今回の様な事故の保証金また、廃棄物廃炉処理などを含めトータルに考えると残念ながら一番コスト高なエネルギーとしてもが認めざるを得なくなってきたのではないだろうか?
 今回の結果を考えると、それらの補助金を積極的に受け入れた地元の一部の人達も、直接の責任ではないとはいえ、どの様なことだったのかを十分に考えた方が良い。まさか、その補助金が「命と引き換え」だったとは誰も考えていなかったはずである。昔から「命あってのものだね」と言うではないか。再度冷静に現実を見つめ直す必要があろう。一時の補助金による潤いや雇用問題だけでは済まされない将来への重要課題でもある。

 それにしても、原発関係者であれば十分に承知していた情報のはずであるが、何故このようなペテンまがいの暴挙がまかり通ってしまっのだろうか?この点こそが最大の問題なのかもかもしれない。
 テレビ、原発は安全として、開発に関与し推進してきた立場への反省の弁を述べる学者もいないではないが、あの大事故のあった後だというのに、相変わらず原発は安全、現在の放射能被曝量の数値は低すぎるのでだま余裕があるので安心という持論
(言い訳?)述べいわゆる専門家たちが大勢いる。大方の国民の心情とは相当の乖離がある。本来は一番責任を感じべき関係者のはずだが、立場を守りたいのかその素振りはさらさら見せない。彼らの顔を見るにつけ、嫌悪感と失望感で一杯になる。さらに不思議なのは、多くのマスコミである。いつもは舌鋒鋭く迫るキャスターも、それらの人達同調するばかりで、前言と現状との乖離について指摘するとか、間違っていた点についておかしいとの指摘や反省を求めている姿を見たことがないように思う。マスコミの果たすべき責任とは一体何なのだろうか?

 いずれにしても、一刻も早いエネルギー指針の提示が望まれるが、その計画は、今回の福島の原発の問題を近視眼的に取り上げ議論するだけでなく、次世代を担う人達のための100年単位の国の遠い来を見越したものにすべきであるそして、国の素早い決断を願うばかりである。

思うこと
11.06.08

 いやはや、何時まで経っても我が国の政治家は国の将来も自分も良く見えていないようである。本当に日本の政治は死んでしまったのではと思えてしまう。先日も今がその時ではないと書いたが、未だに被災者はそっちのけで、何時迄に辞めろ辞めないのと仲間内の言葉尻のあげつらいだけに終始している。これも前にも書いたが、野党においては何かの熱に浮かされているかの様で更にひどい有様である。あまりにも国民無視(特に被災者)の現状認識に欠けた今の有様では、もう二度とやってほしくないと思われているだろう。今のままでは連立もしない方が良い。一体、何をやろうとしているのか?政治的立場には深い溝や幾つかの異論があろうが、一刻も早く、法律や補正予算を個別にでも成立させ、被災地の人達に明日への希望を提供し、安心してもらわなくてはいけないというのに権力闘争と党利党略ばかりでは。見つめるべき相手が全く違うのではないか。今回の災害は、自然災害には違いないが、これは民難であるとの説もあるが、その通りだと思う。
 同罪なのは何も政治家だけではない。マスコミは広く情報を提供でき、影響を与えるという意味で国民への責任は更に大きい。コメンテーターや評論家の発言は、聞いている人たちに結構影響を与える。しかし、被災者に希望を持って生きようと呼びかけながら、その一方で現状の否定的な話ばかり繰り返して、聞いている人を鬱状態にさせてしまう。復興への対応策を殆ど述べることも無く、実りのないこと限りない。彼らも少しは被災者が希望を持てる実行できる方策を同時に語って欲しい。それが無いのであれば、せめて今は少し黙っていてほしい。原発の被爆量などの事実を正しく伝えることは否定しないが、自分を売り込むのはここぞとばかり、危機を煽ることだけに終始している彼らの現状は誠に情けない。これでは国民への裏切り行為に近い。納得できる責任あるコメントを聞ける人もその機会も今は少なくなってきている。
 復興会議のメンバーの顔触れを見ても、これで本当に復興がスピーディに進むのかと心配である?それにしても復興は中々進んでいない。義捐金もまだ15%程度の配分で、殆どが配分されていない現状などを聞くと、被災者の気持ちが思いやられ本当に暗澹たる気がする。今こそ必要なはずなのに、何故なのか?そして、長期計画も大変重要なのは分かるが、今必要なことを一刻も早く進めることも同時に必要だろう。今は無い無い尽くしではあるが、優先順位を付けて着実に半歩ずつでも前に向かって進むしかないと思うのだが。
 また、復興に伴う工事の発注が地元の業者に中々発注されないと聞く。仕組みがどこかおかしい様に思う。被災した人達にとって、今一番確保したいものの筆頭は、今迄に住んでいた地域に近い場所に立つ住まいではないだろうか?それの確保が未だに進んでいない。また、住まいは、建てても生活の中で不具合や修理など細々としたことが常に起きるものであるから、一番身近で長い期間付きあっていかなければいけないものの代表であろう。従って、住まいこそ地元での身近な対応が必要であり、一番重要なことではないだろうか。その良い事例として、
岩手県では地元の材木で仮設住宅を創った住田町がある。その様な仕組みが出来て初めて、地元にも仕事が生まれ、皆の元気が蘇り、街が再生し、コミュニティが整ってくるのではと考える。県の発注だからと言っているようであるが、今こそ地元を最優先し、共に支えあってこそ津波で洗い流された地域の文化を再興できるのではないかと思う。地域を良く知らない外部の業者が、ここぞとばかり乗り込んで来て地元に根付いた文化や利益を根こそぎかっさらって良いはずがない。再考を願いたい。


思うこと
 11.04.10(11.05.29up)
  震災直後の3月14日に書いた内容の深刻さにいささかの躊躇も感じ、アップするのが遅くなってしまった。更に、原発の状況が水素爆発が続くなど日々悪い方へ刻々と変化してきたため、なお書きづらくなってきている。ゴールデンウイークも過ぎ、5月の末になろうとしている今、震災直後の記事を今頃アップするのも幾分気が引けるが、同時に前の分も合わせて出すことで少しは直後の私の気持ちが伝えられると思う。そうせざるを得ないという気持ちもある。また、シンガポールで制服を着た現地の子供たちが、街頭で日本への募金活動をしていたが、本当に心の底から感謝の気持ちで一杯になった。遅ればせながら、御礼を申し上げたい。

 原発問題については、学者でも建設推進派と慎重派の意見が全く二分されており、分かりにくいこと極まりない。特に推進派の御用学者の発言には、あれだけ想定できることを想定していなかったという点が実証されたにも係わらず、想定外と片づけ、それでも安全だなどと自説の強弁や普通の感覚からは程遠い、理屈の通らないあまりにも無責任な発言が多く聞かれ、一体日本人はどうなってしまったのだろうかと思う。また、今回の事故に重大な責任を負うべき立場と考えられる原発に関与した委員や学者や設計者などが、どう見ても頬が緩み笑っているとしか見えない顔でテレビで発言している。しかも不思議なことにマスコミなどでもそれを煽りこそするものの、咎めようともしていない事実である。また、議論する場合にも考えて置かなければいけないことがある。原発問題と言っても今回の震災で見えてきたこととして問題は多岐に分かれており、それぞれ分けて議論することが大事である。ごちゃまぜの議論が多いのは何故なのか?
 一応御断りをしておくと、現時点で私は、別にどこか特定の党や人を擁護するつもりもないのだが、この所の政治家達の行動を見ていると、国民のことを考えて行動しているとは到底考えられない人が多い。日本の政治は既に死んでしまったのだろうか?取り分け、このところのある党の政治的堕落はひどいもののように感じるが、本人たちはなぜ気が付かないのだろうか?最近、目を見開き、眉を吊り上げて言っていることは単なるクレーマーにも感じる。とても取って代わる党の行動とは思えない。良く政府を罵倒するかのように問いかけているが、彼らは日本国民をどのようにしたいのだろうか?この国難の危機的状況の中で発言するにはあまりにも適切とは思えない言葉ばかりが聞こえてくる様に思う。大変に違和感を感じる今日この頃である。今は変えてどうかなる時ではない。
 テレビ局の担当者もコメンテーターや有識者と言われる人達も入れ替わり立ち替わり、売り込み時はここぞとばかりテレビに出てくる。局の意向なのか?しかし、彼らの発言に心底納得できるのは稀で、偏っていると思われることも多々である。口角泡を飛ばして(パフォーマンスもある)政府への批判や誰かをこき降ろしていれば自分の責任を果たしているような妙な現象が起きている。時の流れの中で主張の変わるキャスターなどもいる。人の事は責められない。よほど注意深く聞かないと我々は混乱するばかりである。例えば、最近、内閣は退陣しろと強要している一部の議員などは震災の前からの延長線上で攻撃しているとしか思えない。まるで今回の震災を好機と捉えているかの様である。その上、今までのことが免罪されたかのように繰り返し攻撃している。国民の気持ち代弁をしていると言っているが、少なくとも私は頼んでいない。一体どのような思考回路なのだろうか?本当にこのような行動が国民全員の希望と考えているのだろうか?憂えるばかりである。この震災で日本は大変な難局を迎えた訳だが、更に重ねて単に相手を責めるだけの実りのない行為を繰り返しているようだ。これでは党利党略・私利私欲そのもので、国民不在の最たるものである。この際、国難脱出のため、そして日本再建のため何とか与野党が一致団結して全ての事にあたってほしい。
(※幾分、事実誤認もあるかもしれないが気持ちを伝えたいのと、待って 時を失するといけないので、このま ま前回分と合わせアップする。)

思うこと 11.03.1411.05.29up
 まさに、想像を絶する大変な災害が起きた。あまりのすごさに思考停止レベルに陥っている。
 今日は14日、発生後3日目の朝である。昨日は全ての局で地震の報道が繰り返し展開されていたが、今日も、どの局でも朝からずっと地震報道が繰り返されている。今回の地震の最大の悲劇は過去に類を見ない(?)津波が同時に起きたことである。全てに想像を超えている。流れる画面で映し出されているその姿は家族も家も道も生活も文化も地域毎、根こそぎ奪い去ってしまっている様はまさに地獄の様相である。それに加え、福島では特に第一原発が津波で大被害を受け、挙句に翌日には水素爆発まで起きており、今後起きるであろう様々の深刻な問題を予想させる。
 11年3月11日午後2時46分、あの日は丁度昼ごろから横浜の叔母を訪問し、話をしている時であった。テレビに突然地震速報が出た直後、11階建ての7階の鉄筋コンクリ−ト造の建物がまるで柔らかい飴のように揺れ始めた。短い縦揺れの後横揺れが長時間続いた。建物と外の景色との揺れのずれを見ていると、かなりの幅で揺れていることが分かり、建物が倒壊するかもしれないと不安を感じた。これで一巻の終わりと一瞬思ったのも事実である。叔母を避難訓練通りコンクリートの壁に囲まれたトイレに誘導しようと、そして玄関扉を開けるために直ぐに立ち上がったのだが、立って歩くのもやっとで、壁や手すりを掴まないと進むのもままならなかった。
 テレビによると、マグニチュード8.8過去最大規模で震度7、東京、横浜は震度5との速報であった。しかし、私が今まで体感した地震の中ではおそらく一番、最大級の揺れであるように感じていた。案の定、直ぐにマグニチュードの訂正のテロップが流れた。その後、再度の訂正があり今回マグニチュード9.0となった。やっぱりという思いが脳裏をかすめた。過去、チリ地震が9.5、スマトラ沖地震が9.1でそれらに次ぐ大地震である。1960年のチリ地震の時には、同じ東北地方東海岸が6mの大津波に襲われ大被害があったという。なぜその経験が今回十分に生かされなかったのか?残念で済ますことはできない。しっかりとした、今後の検証が必要であろう。
 今回の震災で日本の原発行政の不備が無残と言えるほど明らかになってきた。私は原発の安全神話は全く信じていなかったが、その実態については全く把握できていないこともあり、薄々感じることはあっても、ここまで安全へのごまかしや情報の操作がされ、ひどいことになっているとは正直受け取っていなかった。知らなかったではすまない。背景に専門バカの私利私欲を感じる。
 それにしても、原子炉建物などの耐震基準が8.6程度との専門家の発言を聞くと空恐ろしいことである。大自然の中では想定は常に裏切られる運命だ。マグニチュード9.0と8.6のエネルギー量の違いは何倍にもなると言われている。特に今回初めて知った原発基地を監視すべき保安院や原子力安全委員会などの発表は極端に混乱しており、説明の仕方も、意味にも、時に食い違いがある様に聞こえ、時には意味不明で頼りなく、時には東電を弁護しているように聞こえてしまうのは私だけだったのだろうか。提供される情報は、不安を与えるだけで信頼に足るものは少ない。悪い情報でも正しい情報を結局は国民は求めている。別の完全に独立した監視組織を考えるなどの組織改変が必要であろう。問題の根は深いようである。

思うこと 10.12.05
 先月23日朝、テレビで認知症についての番組が放映されていました。最近、私自身も色々な意味で身近な問題にもなっており、興味深く聞きました。私は認知症ケア学会の会員ではありますが、専門は建築ですので認知症に関しては絶えず勉強の連続です。それに医学の世界は学説についても百八十度変わる場合があるので、なお更大変です。
 認知症には大きく分けると数種類、細かく分ければ様々の症状がありますが、一番知られているのはアルツハイマータイプと脳血管性タイプのものでしょう。日本人は脳血管性タイプが多いと言われてきました。しかし、最近分かったこととして、パーキンソン病の症状の伴うレビー小体型認知症が脳血管性タイプと同じぐらいか多少多いということでした。そして、話の中心は最新の認知症の治療法の研究経過についての報告でした。
 認知症は、適切な診断と適切な投薬が大変に大切で、とりわけ診断が適切に行わなければ正しい対処は行われ様がないのです。出来れば、おかしいと感じた時に認知症専門医に掛かることが大切です。専門医は学会のホームページで探すことができます。
 この10年、認知症の研究が急速に進み薬についても新薬が次々と開発されています。症状を抑える薬は既に幾つか開発され、多くの人達に服用されています。とは言え、新薬が販売されるまでには大変に長い時間が掛かるのが一般的です。それでも、中には、レビー小体型認知症を抑える薬が20年ぐらい前に開発され、最近では、人体による臨床試験まで進んでおり、間もないうちに市場に出てくる可能性が高まっている様です。新薬により認知症の症状を抑えることが可能になるか場合によれば治療することが出来るようになるかも知れません。そうなれば、介護が大変に楽になることが予想され、大いに期待したいところです。また、適切な投薬が行われれば、本人自身も笑顔を取り戻すことが出来るかも知れません。この二点はとても大切なことです。
 それにしても新薬の開発には大変に長い時間が掛かるものですが、国としても多くの人達に効用のあるこのような薬の開発にはもっと力を入れてほしいものだといつも歯痒く思います。早く認知症の人達や家族のためにも良い薬が開発されることを祈りたいものです。

思うこと
 10.10.29

 今朝も出勤途中の375号線でタヌキが轢かれていた。再度轢かない様によけて通ったが、大型トラックなどの交通量もく道幅も狭い375号線なので悲惨なことに直ぐにペッシャンコになってしまう。このところ一月ぐらい前から毎日のように見かけるようになってきた。昨日も朝タヌキやイタチか2頭がペッシャンコになっていた。秋になるといつもこの話題を提供する事になるが、人間の責任の一端を感じる大変悲しい出来事である。現在呉と西条を結ぶのは375号線の一本だけである。交通事故があるとにっちもさっちもいかなくなる。それを解消するため、それと並行して呉と山陽道をつなぐバイパスが山間を切り開いて急ピッチで進んでい大型トラックの往来が激しい。最近、山肌が白く見える場所がめっきり増えてきた。それ影響きっとあるに違いない。
話は変わるが、20日は乾燥のあまり未明から山火事が発生し終日煙が立ち上り、かなりの範囲が焼けたようだ。朝からヘリコプターがバタバタと飛びまわり消防車がサイレンを鳴らし走りまわっていた。これでまた影響を受ける小動物もきっといるに違いない。
また、最近、猿や熊があちこちの人里に出没し人を襲い、その被害が毎日のように全国的にテレビなどで報道されているが、どうしたのだろう?熊に襲われて死者も出ている。広島県下でも今年は600頭を超す目撃があり、北広島町でも人家近くに出没して怪我をした人もいる。テレビのインタビューを見ると住民の不安を表すコメントが多く聞かれる。識者によると今年の夏の暑かった異常気象の影響でクマなどの餌になる木の実などの実りが悪く彼らの餌が少なくなっているようだ。また、里山の崩壊も動物達と人との境界がハッキリしなくなっており、それもこの状況を助長しているという意見もある。彼らと共生することは夢なのだろうか?
先のタヌキやイタチの死骸はここ数年常態になってしまっているが、考えてみると地球環境の急激な悪化を眼の当たりにしているようで怖いことだ。決して彼らの個体数が増えたための事故ではないだろうきっと自然界のバランスがはっきりと狂ってきているに違いない。この呉市の周辺は、都市部に比べれば、まだ緑が残された地区だと思うが、それでもきっと彼らには住みにくくなっていると思う昨年は帰宅途中に車の直前を体高1m以上の大きな鹿があっという間もなく横切て山に消えたが、彼らに追突はしたくないものだ。精一杯生き延びてほしい。勿論ぶつかられたら大きな事故になることだろう。居るのは見かけた1頭だけではないだろうから結構この辺りに生息しているのかも知れない。あるいは何処からか移動してきたものだろうか?遠くではある、世界遺産の宮島には沢山の鹿が住んでいる。宮島も住みにくくなって逃げてきたのだろうか?どこもかしこも住みにくくなっては大変にったことだ

思うこと(09.12.27

 私だけが感じている事だろうか?
 最近、家のテレビの調子が急に悪くなってきた。スイッチを入れても画面全体に雨が降って、見たいチャンネルが直ぐには映らない。暫らくして機械が温まった頃(?)やっと流れる画面になり、その内固定してきて全てのチャンネルが普通に見える様になる。七年目なので買い替え時だろうか?
 しかし、妙な事が気になってきた。先週、横浜の叔母の所に行ったらやはり故障が起き始めている様である。日に数回ほど画面が突然消えるのだそうで私のテレビとは少し症状が違うのだが、それでもテレビが見えなくなるという点では同じである。私のものも古過ぎることもないはずだが。最近はあらゆる電化製品が壊れやすくなっているようだ。
 国はこの所、嫌になるぐらいしつこくどのチャンネルでもアナログのサインを画面の右肩に表示し、買い替えを奨励している。私はそれを見たり聞いたりする度に依怙地な気分についなって、迷ってはいるがまだ買い換えていない。その事と身の回りで連続して起きている現象をつい結び付けて故障電波を送って来ているのではないかなどとあらぬ妄想を抱いてしまう。故障電波などというものがあるはずはないのだが、ついそう思いたくなるぐらいの最近の現象である。
 また、これも大変気になることだが、最近の野菜は冷蔵庫に保存していても三日程度かせいぜい一週間程度しか鮮度がもたない。皆さんはそう思われないだろうか?直ぐに腐ってしまう。十年前ぐらい前まではこんな事はなかったように思うのだが。
 先日、何気なくテレビを見ていたら北海道の農家の野菜の収穫の風景が中継されていた。農作業にも革命が起きているようで、大農場の怪物のような大型機械による収穫風景であった。我々に馴染みのとうもろこしや人参、玉葱、ジャガイモなど野菜のかなりの量がここ北海道で作られ収穫されている。野菜が大型収穫機械に備え付けの工場のベルトコンベヤーの様な機械によりあれよあれよという間に大量に処理される風景だった。農家の方は得意気であった。収穫されたものは見た目には大変にきれいな野菜に見える。この時、ふと気付いた。野菜は確かに効率よく大量に集められるのだが、収穫の途中に機械のあちこちにぶつかって目には見えない傷が皮の下に出来ているのではないだろうか。それが腐りやすい野菜に繋がっているのではないか?と思ったのである。
 先程のテレビの件はいささか荒唐無稽かもしれないが、こちらの説はあながち間違ってもいないのではないかと思う。昔の野菜は、丁寧に月日を掛けて大事に育てた野菜を一つずつ手で慈しむように収穫していたものだ。最近は、全国のスーパーでも近隣農家の方達の持ち込み野菜の売り場が設けられていることが多くなってきた。無農薬で作った農家の方の顔が見えるので出来るだけ野菜はこのコーナーで買うようにしている。気のせいだけでもないと思うが野菜の日持ちも良いように思う。文明の発達も時と場合により良し悪しがある。
 付け加えると、ついに値引きに踊らされ(?)テレビを買ってしまった。ところが共聴アンテナが対応していないらしく、見る事の出来るのはボケたアナログである。ああアナログ人生かな!


思うこと(09.11.08

やっと先日、遅ればせながら年金の手続きをしてきました。2年前に相談に行った時に年金額を聞いていたのですが、その時、思っていたより少ない額にがっかりした記憶があります。担当者から「沢山払っているから多いですよ」と言われても少ないと思っていたせいもあり慰めにもならなかったのですが、今回申請に行きましたら更に悲惨な話を聞く羽目になりました。以前聞いていた話と全く違う半額ぐらいの話に愕然としました。期間は満たしており支払額も多いがその期間が少ないから低額になっているとの納得の行かない説明です。なぜ前回と話が違うのか、多く金額を払っている人がなぜ少ない額しか貰えないのか釈然としません。また、そのやり取りの対応が紋切り型でこちらの神経を逆なでします。あれほど色々と言われているのに全く反省は無いないようです。理由を聞いても冷たく 「データがそうなっているから間違いは無い。」私のせいではないという理屈です。確かに相談担当者の責任ではないのでしょうが、前回と違う話を聞いて疑問・不安を感じている相談者に対しての言い方では無い様に思います。もう少し親切に対応願いたいと思います。まるで親切にすると損をすると考えているようです。対応については多く言われてきたことですが、記録未記載発覚直後を除き今の対応は元に戻っているように思います。
なぜこんな事になったのか2年前の相談資料と比べて確認してみようと以前の相談時に貰ったデータを家中探しましたが、未だに何処に紛れ込んだか出てきません。ですから以前聞いた話と違う事が立証できない状態です。必ず暫らくすれば申請をする人の2年前の相談記録がなぜ残されていないのでしょうか。ここでも本人が証拠を探して自ら立証しないと何も変わらない状況が存在しています。幾つかの状況証拠(?)から考えるとおかしいと考える方が普通のように思うのですが。あきらめずに尋ね続けようと思います。


思うこと(
09.11.07

久しぶりにこの欄にも書いて見ようと思います。
色々と気になること腹の立つことが身の回り、世の中を見渡すと多過ぎます。とは言え、腹立ち紛れで書いてはいけないと自制してきましたが、出来るだけ冷静に穏やかに書いてみましょう。先ずは、手始めに少し疑問を感じている事から始めます。
最近、運転免許を始め様々の資格制度がありますが、その更新が(まだ残っているものもありますが)、いくつも重なって今年はとても大変でした。もっと簡単にならないものかと思うことしきりです。申請の簡素化や郵送受付や土、日などの活用なども考えて欲しいところです。それらの更新をやっている中で感じたことを少し書いて見ます。
事故などが起きて被害を受ける人達がいることを考えると、最新情報を入手する更新は当然のこととして理解しなくてはいけないのでしょうが、更新には申請の出来る期間制限がありますので幾つか重なると日常業務の中でそれに合わせるのが大変です。それに申請受付や更新に伴う研修は殆んど平日に行われています。申請に郵送を認めているものもありますが、殆んどの制度が申請書の直接持参が原則になっています。なぜ認めないのでしょう?
私に関して言えば、先般の耐震偽装事件にも大いに影響を受けています。直接偽装で被害を受けたマンションの住民の苦しみは筆舌に尽くしがたいものがあると思いますが、建築関係者への影響も多大なものでした。あの事件以後、建築基準法が改正強化されました。そのため、確認申請が中々下りず建築着工が大変に滞って社会経済的影響も大きなものがありました。また、それに伴い一級建築士の更新や研修制度、管理建築士の更新制度も出来て更新が大変に厳しくなりました。これも期限がありますから更新を急がねばなりません。気分的には更新でがんじがらめの感じがして晴れない感じです。
また、更新には、今まで制度として行われていたものの他、新設されたり今迄の制度の変更があったり分かりにくい部分があります。今回の免許更新などパスポートと同じように突然にICチップを組み込むので暗証番号を2つ考えて来いなど突然に制度が変更され戸惑うばかりです。そんなこんなでキャッシュカードなど周りは暗証番号だらけになって10個以上もあると何が何の番号か分からなくなっています。暗証番号も大いに問題です。だからといって忘れないようにメモを作るとそれを無くしたときには悲惨な事になりますね。皆さんはどのように管理されていますか?


美しいもの
(2007.12.31)
世の中には美しいといわれているものは数多くあります。また、様々の分野で次々に新たな美しいものが生み出されています。私も建築に係わり、美しい建築物を創り出していこうとしている者として、建物だけでなく美しいものには大変に関心があります。しかし、美しさを分かるためには美しさを見分ける目を養わなくてはなりません。ですから美しいものを生みだしたいために絶えず機会を捉えて、少しでも美しいものを数多く見ることを常日頃から心がけています。

ところで、そもそも美しいとは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。あるものを美しいと捉えることは個々人それぞれの感覚であり、必ずしも全員が一致するとは限りません。従って、美しさを評価することはとても主観的なことでもあります。しかし、それを美しいと感じる人が多く存在し、多数の評価を受けると世の中ではそれに対し一定の価値を認めます。多くは美術品と言われます。それらは、時間的経過の中の一瞬の風景などの現象であったり、建物であったりしますが、時には、美しさの基準が、外国(残念なことでもありますが)など自分より価値を高く感じている相手が高く評価した場合など、それに釣られて認められる場合もあります。日本では海外に流出し、海外で評価され再流入した美術品が数多くあります。江戸より浮世絵や明治以降の絵画や彫刻など枚挙に暇がありません。日本人はそれらを生み出した優秀な民族のはずですから、もう少し審美眼にも自信を持たなくてはいけないだろうと思います。
今述べたように、絵画、彫刻、陶器、織物などその美しいという価値のために美術品として評価されています。建築のデザインなどで言えば、形態・形状・構造・そのもののバランスや構成の美しさもありますが、機能美という表現もあるように、一見美しさとは無縁のような機能性でさえも、極限まで洗練されてくると美しいと表現される領域に入ってくるようです。確かに、大きな鉄やコンクリートの橋や競技場の大屋根などの力学的力強さを秘めた構造的な美しさは機能美そのものともいえるものがあります。
その様に「美しさ」に対する基準は人により千差万別で(だからこそ良い部分もあるのかもしれませんが)人の想いの数だけあると言っていいのかもしれません。しかし、他のものと比較をするときにややこしいことになります。その意味では、主観にとらわれない誰もが納得できる絶対的な美しさの基準が求められるのでしょうが、あまりはっきりしませんし、必ずしも誰もが全員一致で納得できるものではない様です。
また、精神的なものを突き詰めて美しさとして評価することもあります。特に日本では、潔さに対しては高い評価が与えられ、桜の散り際のさっぱりと散る姿に自分の姿を投影し、桜を愛でる国民性の様です。この点は、何故そのようになったか興味深い点ですが、何故かは深く判断が難しいのでここではこの程度にしておきます。
しかし、洗練され優れた美しいデザインの建物やその空間が、その場に立ち会う人に精神的な感動や癒しを与えることは良く経験することです。例えば、色々と悩んでいるときにお寺や教会で時間を過ごして心が和むことは良く経験することです。また、茶の湯の行われる極限に場を突き詰めて計画された茶室などはこの典型的なものです。




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