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美しいもの(2007.12.31)
世の中には美しいといわれているものは数多くあります。また、様々の分野で次々に新たな美しいものが生み出されています。私も建築に係わり、美しい建築物を創り出していこうとしている者として、建物だけでなく美しいものには大変に関心があります。しかし、美しさを分かるためには美しさを見分ける目を養わなくてはなりません。ですから美しいものを生みだしたいために絶えず機会を捉えて、少しでも美しいものを数多く見ることを常日頃から心がけています。

ところで、そもそも美しいとは具体的にどのようなことを指すのでしょうか。あるものを美しいと捉えることは個々人それぞれの感覚であり、必ずしも全員が一致するとは限りません。従って、美しさを評価することはとても主観的なことでもあります。しかし、それを美しいと感じる人が多く存在し、多数の評価を受けると世の中ではそれに対し一定の価値を認めます。多くは美術品と言われます。それらは、時間的経過の中の一瞬の風景などの現象であったり、建物であったりしますが、時には、美しさの基準が、外国(残念なことでもありますが)など自分より価値を高く感じている相手が高く評価した場合など、それに釣られて認められる場合もあります。日本では海外に流出し、海外で評価され再流入した美術品が数多くあります。江戸より浮世絵や明治以降の絵画や彫刻など枚挙に暇がありません。日本人はそれらを生み出した優秀な民族のはずですから、もう少し審美眼にも自信を持たなくてはいけないだろうと思います。
今述べたように、絵画、彫刻、陶器、織物などその美しいという価値のために美術品として評価されています。建築のデザインなどで言えば、形態・形状・構造・そのもののバランスや構成の美しさもありますが、機能美という表現もあるように、一見美しさとは無縁のような機能性でさえも、極限まで洗練されてくると美しいと表現される領域に入ってくるようです。確かに、大きな鉄やコンクリートの橋や競技場の大屋根などの力学的力強さを秘めた構造的な美しさは機能美そのものともいえるものがあります。
その様に「美しさ」に対する基準は人により千差万別で(だからこそ良い部分もあるのかもしれませんが)人の想いの数だけあると言っていいのかもしれません。しかし、他のものと比較をするときにややこしいことになります。その意味では、主観にとらわれない誰もが納得できる絶対的な美しさの基準が求められるのでしょうが、あまりはっきりしませんし、必ずしも誰もが全員一致で納得できるものではない様です。
また、精神的なものを突き詰めて美しさとして評価することもあります。特に日本では、潔さに対しては高い評価が与えられ、桜の散り際のさっぱりと散る姿に自分の姿を投影し、桜を愛でる国民性の様です。この点は、何故そのようになったか興味深い点ですが、何故かは深く判断が難しいのでここではこの程度にしておきます。
しかし、洗練され優れた美しいデザインの建物やその空間が、その場に立ち会う人に精神的な感動や癒しを与えることは良く経験することです。例えば、色々と悩んでいるときにお寺や教会で時間を過ごして心が和むことは良く経験することです。また、茶の湯の行われる極限に場を突き詰めて計画された茶室などはこの典型的なものです。

思うこと:(07.10.20)
世のなかを見回すと、殺人事件が毎日のようにあちこちで何かの事件が連続しており、テレビや新聞を賑わしています。どうしてこの様に多くなったのでしょうか。先日も小学生が自宅の玄関の前で刺殺されています。大変にむごい事件で家族の悲しみはいかばかりかと思います。一刻も早く犯人が捕まって欲しいと願います。
それにしても、こうも簡単に殺人が頻発しているのはどのような原因があるのでしょうか。個人の問題としてだけでなく、社会的な問題としても捉える必要があるようにも思います。大学で教えていて、思考が一貫せず自分中心の思考の人が急速に増えているのも大変に気になるところです。また、最近の事件で大変に気になることは犯人がなかなか捕まらなくなっていることです。嘗ては、優秀と言われ、日本の安全を世界的にも高いレベルで守ってきた警察の防犯力はどこに行ってしまったのでしょうか。そして、捕まっても何故それを行ったのか等の真相が明らかにされず、原因等が掴みにくくなっているように思います。これでは同様の事件がまたまだ連続しそうな心配があります。光市の母子殺人などは、被告の荒唐無稽な弁解や弁護団の発言が大きく取り上げられ話題になっています。これでは、真相は闇の中に閉じこめられたままに終わりそうです。このままでは残された家族の悲しみは一生消えないように感じます。そして、弁護士の社会的役割についてもこの事件は考えさせられます。
また、事件でもう一つ気になることは、マスコミ報道で行っている姿勢は、残された家族などへの配慮が十分に行われていないように感じます。知る権利の錦の御旗のもと、プライバシー保護も無く、何でも有りでスクープをあげる事への関心のみが先行して、家族が悲しもうが平気な人もいるようです。嘗ては日本人も持っていた社会的なモラルが少し崩壊してきていると思います。そして、それらの状況が今の社会情勢を生みだしているのかもしれません。

国道375号線その2 (07.7.14) 

 この国道は色々な話題を提供してくれる。狭く一本道であるため呉から2号線や西条に向かうにはこの道しか無く、前にも書いたように大型のトラックから定期バスまで大型の車がひっきりなしに行き来している。今年は動物の死骸はあまり見なかったが、環境の変化だろうか。小動物が減っているとすれば問題である。
 さて、今日は運転マナーのことである。マナーの悪さは狭い道には大変な影響を与える。狭い道から一旦停止せず鼻先を付きだして通行の邪魔をする軽車両は、度々危険を感じている。大型の対向車があり、後続車がトラックなどの場合、避けようもなく一巻の終わりかと感じるときもある。ちなみにも申し上げておくと、私はこの道を通るときは50から60qの制限速度内で走っている。だから私が無理をしているのではない。まあ、この様な経験を毎日していると運転もうまくなっているかもしれない。最も死ななければの話だが。
 また、もう一つ危ないと思うことは車のライトのことである。特に、軽車両はヘッドランプの切り替えが出来ないのか大変に眩しい。暗い狭い道の曲がっている個所でこの様な車とすれ違うと一瞬目くらましにあったようで前方が全然見えなくなる。道幅の間隔もかすれて対向車と接触しそうになる。相手のスピードが出ていれば、これも正面衝突で死ぬしかない。
 早く安全なところへ引っ越したいものである。



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