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バリアフリーデザインの定着化(10.03.06)

バリアフリーデザインという言葉もユニバーサルデザインという言葉と共に最近ではかなり広く聞かれるようになってきている。確かに、一部の自治体などでは熱心な取り組みをしているところもある。しかし、全国的に見ると本当の意味で理解され実行され定着してきているだろうかと街を見渡してみると、いささか歯がゆさを感じる点もある。理念の理解および定着化より何かイメージの方が少し先行しており、スタイルかファッションの一つになっているきらいもある。
いつも繰り返し言っていることだが、バリアフリーデザインはその人の生活全般に対応すべきである。点(ある障害に対して)だけの対応ではその場だけの解決であり極めて不十分である。人の生活の面から考えてみると生活場面は家の内外あらゆるところに広がっている。従って、生活に対応するためには、線の対応、そして面の対応までできないと生活支援対応としては不十分である。今まで、長年バリアフリー化の推進に係わってきている身としては更なる推進の定着化を望みたいと思う。
改めて考えてみると、国は、2006(平成18)年に今まで改正ハートビル法(2003)と交通バリアフリー法(2000)を統合し、バリアフリー新法を制定し、今後の国としての取り組みについての姿勢を示した。その意味では、いよいよ私の望みがかなう時代となったといえるのだが、どうだろうか。法律としては人種差別を含めあらゆる分野の差別を禁止したアメリカ人法(ADA法)と比べると罰則規定が大変にゆるい。罰則はあるにはあるが(今回前の改正ハートビル法より厳しくなってはいるが)、その額ははるかに低額で抑止効果としては強くないように思う。勿論、厳罰だけが良いというわけではないが、罰は一度体験したら同じことは繰り返したくないと感じさせることが肝要ではないだろうか。その意味では、日本の罰則は大変に軽いと感じさせる。何回ぐらい改正が繰り返されれば程良い内容になるのだろうか。今後も係わりながら見守っていくことになる。

心のバリアフリー (2002.6.21)

 障害を持った人達について多少とも批判めいたことを言うことは、何の偏見無しであろうとも誹謗中傷のように捉えられがちになるため、何か後ろめたい気持ちが先に立ったり、批判を気にしたりして控えることが多いような気がします。それが、一種のタブーであるとすれば別の意味で心のバリアになりまずいことではないかと思い、言葉を出来るだけ慎重に選び、建設的な意見として少しだけ述べたいことがあります。何であれ、枠の外からの意見だとして批判があることも認識しています。

 自分の子供が健やかに成長し、毎日を元気に過ごして欲しいと思う親の気持ちは世界中共通したものがあるだろうと思います。きっと、誰もが同じ思いを抱きながら日々を暮らしているに違いありません。ましてや、障害を持った子供の親はその思いが一層強いだろう事は予想に難くありません。身体障害者の親たちも同じ思いに違いありませんが、身体障害者で重度障害の方の中にも、かなり以前から問題意識を持ち本人自ら行動し、社会的な権利を確得してきた人達が居るという歴史もあるため、一般社会の中で働いている人達も大勢います。全体から言えば一部の人になるかもしれませんが、自立して普通に働いている人もいるくらいですから差別がなくなったとはいえないにしても以前と比べ、社会的な意識も大分変化してきたといえるでしょう。
 しかし、知的障害を持った人達は以前ほどではないとしても、社会的な受け入れ態勢は、全体から言えば僅かの企業が受け入れに着手しているに留まっています。自らが権利獲得のために行動することが難しかったこともあり、現在でも自立生活や就職などの社会の受け入れ状況は相当難しいものがあります。従って、親たちは「自分が働けなくなったら」とか「自分たちが死んだ後は」とか心配の種は尽きないことだろうと思います。そして、今の日本社会の受け入れ態勢や施設などの現状はそのような親や家族が安心して任せられるようには都合良くできていないのも残念ながら事実です。今後とも、皆が心のバリアを取り払え社会的な受け入れが一層進むような努力が必要なことだろうと強く思います。しかし、気になることが少しあります。困難や問題にぶつかったとき、一部の親たちの中にはその思いが強過ぎるがために周りのことが見えなくなることもあり、自分たちの正当性を訴えたいがために「あなた達は私たちの窮状を理解し支援するのが当然ではないのか」といった独自の論理展開になることもあるようです。その結果、その姿勢や行動が残念ながら意志とは逆に周りの人にはとてもエゴイスティックに映り、距離が出来て孤立することになります。そうなると、周囲からの支援や援助なども少なくなり悪循環が起きてくる場合もあるようです。しかし、どんな場合も一般社会の基本的ルールはどの様なケースであろうとも適用されることが当たり前であり、法的なサポートも平等で同じだということは改めて認識しておくことが大切です。それをはき違えると判断を誤り、本人達にとって良い結果が得られないのは当然のことになります。心のバリアフリーに関してもハンデのある人に進んで歩み寄る姿勢はいつも必要ですが、ハンデのある人もない人だけに一方的に要求するのではなく、お互いに近づこうとする努力が必要なことではないかと考えます。それらの気持ちを通じさせようという努力無しにはお互いの理解も深まりにくいのではないかと思うのです。


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